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罠を張る
「それだけで帰っちゃったの!?」
「吉森さん、声が」
教室の隅で弁当をつついていた吉森有紗は周囲を見渡し、気持ち程度に頭を下げた。
「ごめん。で、二週間振りのミューズ先輩との逢瀬にもかかわらず、世間話で別れたと」
千歳にモデルを頼んで以来、有紗は「ミューズ先輩」と勝手に呼び続けている。本人が聞いたら間違いなく怒る呼称だ。
「他に何を話せと? それどころじゃないんだから」
「大変な時だからこそ頼るチャンスじゃない。モデルをもう一回頼むとか」
「お金がありません」
天下の白羽家にあるまじき発言だが事実だ。夏休みのアルバイトでも足りず、千歳にはモデル代の支払いを待ってもらっている状況。延長など頼めるはずがなかった。
「安くしてもらえばいいじゃない。ミューズ先輩だって絶対気があるって」
「そもそも私は秋本さんをそういう対象として見ていないわけでして」
「はいはいあくまでも人として好きなんでしょ」
言葉に反して有紗はまったくわかっていないようだった。
モデルと画家は恋愛関係に発展することもままあるが、千歳と自分に関していえば当てはまらない。契約ありきの関係である上に、千歳には毎回怒鳴られている。絵が完成したらそれで終了。他校の、学科も違う先輩と後輩では今後関わることもないだろう。
「でもお昼差し入れしたんでしょ」
「なりゆきです」
「銀座でデートしたんでしょ」
「楽器屋さんに行っただけです」
「東京駅で手をつないで、家まで送ってくれたんでしょ」
「一刻も早く絵を完成させたくて急いで帰っただけです」
しかし思い返してみれば、ずいぶんと親密になっている。三つ下の妹がいるせいか、見かけによらず千歳は面倒見がいい。それに自分も甘えているのは否めない。
(いけない)
大変よろしくない傾向だ。ただでさえ継母達によって甘やかされているというのに。自立せねば。
「それはそうと、ホントに絵はどうするの?」
雪見は手元に視線を落とした。来るべくして来た質問だった。逡巡は一瞬、意を決して顔を上げた。
「小作品があるからそれを掲示してもらおうかと」
「あ、そうなんだ。じゃとりあえずは大丈夫ね」
有紗はあっさりと納得した。
「いつ持ってくるの?」
「実は今朝持って来たの。ギリギリまで部室のロッカーにしまっておくつもり」
「その方がいいよ。鍵かけておけるし」
雪見は「そうだね」と微笑した。ひきつった笑顔になってしまったのは致し方ない。どんな理由であれ、友人を疑い、嘘をついているのは心苦しかった。
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