罠にかかる

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罠にかかる

 邪が出るか蛇が出るか。文化祭を三日後に控えた日の放課後、雪見は彩子と共に展示教室へと向かった。  スプリンクラーが誤作動した教室は今も立ち入り禁止になっている。移動先は一つ上の階。隅に位置し、日があまり当たらない、絵画を展示するにはうってつけの教室だった。  鍵を開けて展示教室に入る。左手側には腰の高さほどのロッカーが並んでいる。その内の一つを開けて、雪見は中を覗き込んだ。  祈るような気持ちだった。どうか何も起きていませんようにと、仕掛けた後もずっと思っていた。 「伊藤さん?」  彩子の気遣う声が耳を通り過ぎた。雪見は口を右手で覆った。震える唇から吐息を漏らす。泣きそうだった。  ともすれば絵に伸ばしそうになる手を押し留める。危険だ。まだ液が付着しているかもしれない。  雪見は鞄からゴム手袋を取り出してはめた。ロッカーから慎重にキャンバスを引っ張り出す。描かれていたのはリンゴの絵ーーのはずだった。その面影はもうない。剥離剤によって溶けただれた絵具が不気味な様相を呈している。  キャンバスの惨状に彩子が息を呑んだ。 「この場所は、吉森さんに伝えたんだよね?」  雪見はキャンバスを机の上に置いた。複製画とはいえ自分の作品が壊されて良い気はしない。犯人が親しい人ならばなおさらだ。 (どうして)  同じ絵描きならば、一つの作品にどれだけ心血を注いでいるかわかるはずだ。何故踏み躙るような真似ができるのだろう。雪見には理解できなかった。 (そんなに私のことが憎いのですか)  祈っていたのに。願っていたのに。信じていたかったのに。真実なんて知りたくはなかった。ただの事故で、悲劇のヒロインよろしく泣いていたかった。 「伊藤さん、辛いだろうけど……立川先生に言った方がいんじゃないかな」  雪見は深く息をついた。心の底から吐いたため息だった。 「先生には言いません」  振り向くと彩子は軽く目を見張っていた。 「黙っているの?」 「はい。このことは誰にも、母にも言うつもりはありません。だから安心してください」 「え?」 「文化祭が終わったら創作文芸部も辞めます。だから先輩も黙っていてください」 「いや、何も伊藤さんが辞めなくても」  雪見は頭を振った。部活を続けている限り、自分の絵を台無しにした人と顔を合わせなければいけない。素知らぬ顔で過ごすことはできない。咎めないだけで、決して見逃すわけではないのだから。 「だって先輩ですよね、私の絵に剥離剤を塗ったのは」
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