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当の本人はというと、今度は水浴びをしているウグイスのスケッチに夢中で、千歳の視線には気づいてもいないようだった。よくよく見ると結った髪の上にトンボが止まっている。が、まるで頓着していない。秋の強い日差しの中、一心不乱に鉛筆を動かしている。
驚嘆すべき集中力だ。国内の絵画コンクールで何度も入賞するだけはある。先ほどスケッチ画をいくつか見せてもらったが、素人の十蔵でもわかるほど、雪見の描画力は抜きん出ていた。
好きなのだろう。誰に言われるまでもなく理解できる。あの子は絵を描くことがとても好きで、絵を描くための労苦を労苦とも思わない。
ヴァイオリンを弾いている時の千歳、いや、集中力だけでいえば雪見の方が上だろう。見ているこちらが圧倒されるほどの一途さだ。
しかしそれは、裏を返せば絵以外はどうでもいいということだ。日差しも暑さも汗も虫も二の次。目的を前にしてしまえば視界に入らないし、認識すらされないーーたとえ、誰かが想いを寄せたとしても。
ただの後輩だと千歳は言った。素直になれないが故の憎まれ口かと思ったが違う。雪見にとっての自分はただの先輩に過ぎないと知っていたのだ。
「おい、駒動かすんじゃねえ」
「バレたか」
戯けてみせると、千歳は深々とため息をついた。
「……ヴァイオリン、持ってくるんだったな」
雪見のスケッチは終わる気配がない。完全に千歳は待ちぼうけだ。これ幸いに十蔵は盤上の駒を再び整列させた。少なくともあと一局くらいはできると判断した。
「赤飯と鯛は早過ぎたな」
「あ?」
「話を聞かなくて、鈍臭くて、図々しい、だったか?」
「……なんだよ。いきなり」
「ちーが全然好みじゃない子を連れてくるのは、珍しいと思ってな」
本当にただの後輩なら、庭に放置して自分はヴァイオリンの練習に勤しむなりしていただろうに。あまりにもわかりやすい孫に、十蔵は声をあげて笑った。
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