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秋本千歳は達観した子どもだった。
平均よりも少し裕福でない家庭で、三つ年下の妹がいることもあって、我慢を強いられる頻度は一般家庭よりも多かった。誕生日もクリスマスも、同年代が新作ゲームを与えられている中、千歳はコミックスの単行本一冊。塾や少年野球などといった習い事はもってのほかだった。
本来ならばヴァイオリンを習えるはずのない千歳が今の音楽教室に通い出したのにはわけがある。
発端は新規の生徒を募るために開催された体験教室。無料の言葉に惹かれて千歳の母が申し込んだのだーー妹の、京子の名で。
ところが当日になって京子が風邪をひいて寝込んでしまい、やむなく代わりに千歳がピアノの無料体験教室に参加することになった。当然ながら面倒事を押し付けられた千歳は面白くない。ピアノなんぞに興味もなかった。親の目もないのをいいことに体験教室の大半を寝て過ごし、とっとと退散しようとしたその時、千歳は呼び止められた。
「君、左利きだろ」
挨拶も名乗りもなく話しかけてきたその人は、やたらと友好的な態度で寄ってきた。挙句、断りもなく千歳の手を取りしげしげと眺める。胡乱な眼差しを向ける千歳にまるで頓着しない。
「指も長い。遺伝かな? 家族に音楽をやっている人は?」
「いねえよ」
千歳は手を振り払った。教室の勧誘ならもっと見込みのありそうな生徒にすればいいのに、と思った。
「いない……?」
「残念だったな。音楽どころか芸術には縁もゆかりもねえ連中だよ。ついでに言うと道楽に出す金もねえ」
「なんだと」
何やら衝撃を受けたらしく、勧誘者はよろめいた。
「まさか……そんなことが」
「いや普通にあるだろ」
「なんて素晴らしい!」
勧誘者は千歳の両手をしっかりと握りしめた。
「音楽に興味がないということは、ピアノが格好いいとか鍵盤楽器の方が毎回調律しなくて済む分楽だとか、ショパンコンクールだの言わないということだろ? 最高じゃないか」
熱く語る勧誘者もとい不審者。ドン引きしている千歳に、期待に満ちた眼差しを向けた。
「ヴァイオリンをやろう」
それが始まりだった。
勧誘者は硬直した千歳を教室に引きずっていき、愛用の楽器を見せつつ、いかにヴァイオリンが他のーー特にピアノに比べても魅力的なのかを切々と語った。
「見ろ、このフォルムを、この色合いを」
飴色の楽器を千歳の眼前に突きつけた。
「見事なくびれだろ。そんじょそこらの人間のモデルなんぞ目じゃない。特にこのカールヘフナーはニスの光沢が独特で、音は言うまでもなく鑑賞としても最高だ」
ヴァイオリンの形状はどれも大体同じのはずだが。千歳がツッコミを入れる間もなく、熱弁は続く。どこまでも。
「徐々に改良を重ねたピアノとは違って、ヴァイオリンは十六世紀に突如彗星のごとく現れ、それ以降全くと言っていいほど形は変わっていない。そう、生まれた瞬間から既に完成していた奇跡の楽器なんだ」
そんなことを言われても楽器に興味のな千歳は「ふーん」と気のない返事をするほかない。
「弾いてみたいだろ?」
「全然」
「そうだよなーまたとないチャンスだもんなー」
「興味ねえ」
「遠慮をする必要はない。さあ好きだけ弾くがいい」
半ば押しつけるようにして千歳の手にヴァイオリンと弓を取らせた。
持ってみて千歳はその軽さに驚いた。f字の穴を覗けば中は空洞になっている。精巧な仕掛けなどない。ただ弦を張っただけの楽器だった。
「肩に乗せて顎をここに。あと弓はこう構えて」
手ずから教えられ、それらしい演奏ポーズに。促されるまま、千歳は弦の上で弓を引いてみた。
「……音、でねえ」
掠れた音が聞こえるだけで、とても本来の音とは思えなかった。しかし勧誘者は慌てず騒がず千歳からヴァイオリンと弓を一度受け取った。
「では魔法をかけよう」
自信満々におかしなことを言うが否や、ヴァイオリンを掲げて「ちちんぷいぷい」と怪しさ大爆発な呪文を唱えた。
「ではもう一度どうぞ」
「は?」
「もう一回」
「意味ねえだろ」
「もう一回」
口調は穏やかだが有無を言わせない圧力がある。千歳は再びヴァイオリンと弓を構えて引いた。
「え」
音が、出た。
技巧も何もあったものじゃない。ただの音だったが間違いなくヴァイオリンの弦が奏でるものだった。
「え、なんで」
「当たり前だ。魔法をかけたんだから」
勧誘者はにっこり笑顔で手を差し出した。
「秘密を知りたくはないか?」
その後は急転直下だ。千歳を迎えに来た母にヴァイオリン教室の説明と勧誘。ヴァイオリンは貸し出し。週一回三十分という通常よりも短いレッスン時間にするかわりに、特別価格で講師を引き受けるという。
勧誘者もとい浅野零は知る人ぞ知るヴァイオリニストだったらしい。プロのヴァイオリニストからの直接指導。根っからの庶民である千歳の母は一、二もなく飛びついた。当の本人の意向なんぞそっちのけで。
これで全くやる気がなかったのなら千歳も断固拒否しただろう。しかしなまじヴァイオリンに触れて音を出した手前、千歳の中にもわずかながら興味が生まれていた。面倒だったらすぐ辞めればいいか、と軽い気持ちで始めたのだった。
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