【番外編】千歳くんのお師匠様

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 浅野零が講師として優れているのかどうかは、千歳にはわからない。比較対象がないし、そもそも趣味程度に始めたヴァイオリンだった。  レッスンは週に一度、わずか三十分の間で山ほど指摘されたことを譜面に殴り書く。記憶と乱雑なメモを頼りに一週間で復習と課題曲の予習を行う。その繰り返し。単調なボーイングや運指の練習に苛立つことも多々あるが、難曲が弾けた時の達成感が補って余りある。  つまるところ、千歳はヴァイオリンを気に入っていた。弾くのが楽しくて、奏でる音色が嬉しかった。好きなだけのヴァイオリンで何かを成そうとは夢にも思わなかった。ヴァイオリン教室は塾にも行かない千歳が唯一学校以外で何かを学ぶ場所ーーただ、それだけだった。  だから中学生になって、同じ教室に通う生徒の保護者に声を掛けられるまで、千歳は自分の場違いさに気づかなかった。 「時間をずらしてもらえないかしら?」  堂前と名乗ったそのオバサンは、挨拶もそこそこに用件を切り出した。  長々しい自慢を含んだ「お願い」を要約するとこうだ。優秀で将来有望なヴァイオリニストの卵ーーと母親は信じて疑っていない可愛い可愛い息子が再来年音楽の名門私立高校を受験するので、協力してほしい。具体的には毎週水曜日五時半からのレッスンを他の時間にしてくれ。いや、譲るのが筋だろう。ずらせ。 「秋本くんも音楽科の高校に進学する予定なら、こんなことはお願いしないんだけど……ねえ?」  堂前(母)の視線が千歳の背中にあるヴァイオリンケースに向けられる。硬質な安物のケース。中のヴァイオリンの質もたかが知れていた。 「透ちゃんは黎陵を受験するの。秋本くんはもう決まった?」  決めるも何も千歳には選択肢がほとんどない。自宅から通える範囲の公立高校。必然的に普通科だ。そして公立高校で音楽科や美術科などの芸術専攻学科はないに等しい。  そもそも、千歳はヴァイオリンを始めてまだ三年だ。しかも週に一度たった三十分のレッスン。楽器は安物を無料で貸してもらっている。切れる度に交換している弦は実費なので一番安いものを使わざるを得ない。  堂前透や高橋綾奈は四、五歳の時からヴァイオリンを習っていると聞く。レッスンも週に二回、たっぷり一時間。使っている楽器は所有品な上に数十万円はする高級品で、弦も月に一度惜しげもなく交換している。比べる方がどうかしている。  千歳はあの二人と一緒に弾く時が一番嫌いだった。楽器の質、練習している曲の難易度、そして知った顔で語る音楽業界事情ーー音楽家の道を目指している者とそうでない者の差を突きつけられているようで、屈辱的だった。 (別に……俺は趣味だし)  千歳は才能も環境も知識もない一般人だった。ヴァイオリンは趣味止まり。透や綾奈を羨む理由はない。最初から立つ位置も目指す場所も違うのだ。  師である零もそれを理解しているからこそ、千歳に合わせたーー初心者向けの指導をしているのだろう。趣味止まりにヴィターリのシャコンヌ、ましてやラロの『スペイン交響曲』なぞ指導する余裕はない。
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