【番外編】千歳くんのお師匠様

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 豪を煮やした本人から詰問されたのは、千歳が返答を保留にした一週間後だった。 「この前親が話した件だけど」  三十分のレッスンが終わって、さっさと帰ろうとしたところを千歳は呼び止められた。 「五時半からじゃないとダメなのか?」  話を持ちかけてきたのは透。今さら時間を変えたいのも透の都合だ。にもかかわらず透はまるで自分が被害者であるかのように千歳を責めた。 「もう二年しかないんだ」  受験まで、と透は強調した。 「ただヴァイオリンが上手いだけじゃダメなんだ。音楽史や専門用語とか理論とか、ソルフェージュもあるし専攻楽器以外にも習わなきゃいけないことはたくさんある」  専門用語を並べ立てていかに大変なのかを主張されても、千歳には全く理解できない。ソルフェージュってなんだ。 「こう言ってはアレだけど……秋本はどうせ三十分なんだろ?」  透が何を言っているのかはわからないが、何を言いたいのかは十分にわかった。要するに『音楽学校受験生に譲るのが当然』だと言いたいのだろう。 「スケジュールの調整があるから早めに決めたいんだけど。浅野先生にも相談したいし」  どうだろう。視線が問いかけている。今すぐ応じろと圧を掛けている。同じヴァイオリン教室に通う生徒の性格くらい把握しておけばいいのに、と千歳は他人事のように思った。 「ヤダ」  透の目が点になった。  瞬きをすること数秒。ようやく意味を咀嚼したのか透の血相がみるみるうちに変わる。 「な、ななな」  何故と問いたいのだろうと察した千歳は端的に返答した。 「変えるのめんどくせえ」 「はあ?」 「水曜日の五時半じゃねえと、俺の都合が悪ィんだよ」  言外に他を当たれと告げて、千歳はヴァイオリンケースを背負い直した。呆気に取られた透を置いて、教室を後にする。  早く帰ってヴァイオリンを弾きたかった。先ほど山のように指摘された点をさらわなければ。一週間後のレッスンで改善していないと、また『シャコンヌ』が遠のく。  何も嫌がらせで時間変更を渋っているわけではなかった。透がそうであるように、千歳には千歳なりの事情がある。  近所迷惑になるので練習ができるのは夜の八時まで。今でさえ、残り時間は二時間を切っていた。レッスン時間が後ろ倒しになれば、その分だけ千歳の練習時間は削られるのだ。 (どーせ交換すんだろ)  千歳は自分の身の程を知っていた。相手はヴァイオリンに人生を賭けようとする天才。趣味レベルの素人の都合なんぞ周りが尊重するはずもない。自分の了解を得なくとも、講師である零が承諾したら時間変更は決定だ。  所詮、一週間にたった三十分の趣味止まり。仕方のないことだと、誰に言われるでもなく千歳は理解していた。
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