【番外編】雪見と百合

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【番外編】雪見と百合

 初めて会った時から気に食わなかった。  百合は自他共に認めるお嬢様だ。由緒正しい華族の家の一人娘。文字通り蝶よ花よと育てられてきた。何不自由のない暮らし。必要は当然のごとく満たされ、望めば大抵のことは叶えられる。常に優先されるべきは自分。それを疑いもしなかった。  そんな百合にとって突如として現れた『成政様の後継者候補』は、自分をわずらわせる厄介者以外の何者でもなかった。誰が後継者だろうと百合は関心がなかった。真弓の親戚でさえなければ誰でもいい。成政の伴侶は自分であることには変わりない。そんなものにかまけているくらいなら、他の愛人どもを追い出す方法を考えていたかった。  それでも面会の場を設けたのは、ひとえに好奇心によるものだった。あの、気性の激しい真弓が後継者として認めた候補者。どんな優秀な人物なのか顔くらいは見てもいいと思った。  現れたのは、百合の想像とはまるで違う子どもだった。小学二年生の女の子。幼さと性別はさておき、見るからに愚鈍そうな子どもだった。物珍しそうに客間を見回して、壁に飾ってある絵画に目を輝かせていた。自分が置かれている立場を理解していないのは明白だ。 「はじめまして。伊藤雪見ともうします」  申し訳程度に出した茶を一口飲んだ後、後継者候補の子どもはぺこりと頭を下げた。隣に座る柚子が微笑ましいものを見るかのように頬を緩めていた。ほだされている。 「紅葉さんの子と伺いましたが」 「お母さんを知っているのですか?」 「いいえ。あいにくわたくしは、成政様に暇を出された方にも、本当に成政様の子かどうかもわからない方にも興味がないものでして」 「百合、そういう言い方はないだろ」  すかさず柚子がたしなめる。が、当の雪見は意味がわかっていないらしく「いとまき?」と首をかしげた。 「いとまきは持っていませんが、絵を持ってきました」  雪見は背負ったランドセルから画用紙を取り出して、百合に差し出した。  描かれていたのは百合の花だった。よくよく見ると色鉛筆で描かれたものだとわかるーー精密な絵だった。わずか八歳の子が描いたとしたのなら驚嘆すべき才能と技術だ。 「ほんと上手いんだよ、この子」  誇らしげに言う柚子の声は、百合の耳を素通りした。  合点がいった。成政は一代で財閥を築き上げた故に、成り上がりと陰口を叩く者が大勢いる。所詮は、下町の庶民の出。知識人ぶっても感性までは磨かれていない、と。  柚子も真弓もこの才能に将来性を見出したのだろう。素質はある。幼い頃から最高の教育を施し感性を磨けば、今の白羽家に足りない部分を補うことができるかもしれない。 (くだらない)  百合は手にしていたカップを傾けた。熱い紅茶が純白の花を赤茶色に染めた。 「ぎゃああああああ!」  断末魔の悲鳴があがった。雪見ではなく、柚子の口から。 「な、なななななんてことを!」 「あら、いやだわ。わたくしったら」 「どうしてこんな! 一生懸命描いたんだぞ!」 「手が滑ってしまいましたわ」  さて泣き出すか癇癪を起こすかーー百合は紅茶でぐしょぐしょになった絵を見つめる雪見の様子を伺った。ショックで状況を飲み込めていないのか、微動だにしない。柚子が慰めの言葉をかけても反応がない。  さすがに心配になってきた折、雪見は顔を上げた。 「べんしょうしてください」 「は?」 「これはわたしの絵です。百合さんのものではありません」  雪見は大真面目な顔で手を差し出した。 「百万円です」 「この絵が? ご冗談を、」 「いや、冗談じゃないぞ」  柚子が意地の悪い笑みを浮かべた。 「雪見はすっごく有名な画家になるんだ。当然、この絵の価値だって上がる。お前はそれを台無しにしたんだから相応の弁償をしないとな」  暴論もいいところだ。無名の小学生が描いた絵を将来性だけで買えと言うのか。  お望み通り百万円現金を持って来させようかと思ったが、それではあまりにも大人げない。してやられた自分に、百合は歯噛みする思いだった。 「なあ百合、お前だってこのままでいいとは思ってないだろ? この子は素直だし努力家だ。今までの連中みたくすれてない」 「それはまだ幼いからですわ。成長すれば否が応でも野心や欲を持つでしょう」  野心や欲がなくては人は向上しないことは百合もわかっている。しかし不相応な欲に踊らされる危険性は看過できない。白羽家はそれだけの財力と権力を持っている。 「だから今のうちから私達で育てればいい。白羽家に相応しい、立派な跡取りになれるように」  柚子は雪見の頭を撫でた。 「お前も協力してくれ。成政様のためだと思って」 「きょう力してください」  ぺこりと頭を下げられる。雪見のつむじと柚子の顔を百合は睨みつけた。 「……わたくしの分が悪いようですわね」  百合は胸元を飾るブローチを外した。  いつから決まったルールなのか。後継者と認めた者に装飾品を贈ることがならわしになっていた。  百合は小さな手に、いずれ白羽家の当主となる手に白い鳩のブローチを握らせた。 「ようこそ、白羽家へ」
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