隣は何を思うひと

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「彩葉!?」  キッチンに包丁があるのは判る。それを彩葉が握っているのも判る。だけど、その刃の切っ先を俺に向けているのが判らない。 「彩葉……危ないだろ!? それを下げろ!」  思わず怒鳴り声を出してしまった。再会した彩葉に絶対に声を荒げないと密かに決意していたのに。でもそれどころじゃない。額から、背中からブワッと汗が吹き出す。何だ!? 彩葉は何を考えている!? 「お、落ち着け……彩葉。話なら聞くから」  切っ先が蛍光灯の光を反射させて鈍く輝く。よっぽどの何かがあったんだ。それを取り除いてやらないと。 「何があったんだ? そんなに辛いことかあったのか? な、話聞くから。そんなのしまって、何でも言ってくれよ」  必死に捲し立てる。思いもよらない展開で、情けないことに脚が震えている。彩葉は至って冷静だ。冷静そうに、見える。 「彩葉!」  彩葉が俯いた。よし、俯いた隙に包丁を取り上げて……と思ったところで、ふ、と笑った気配がした。肩を揺らして笑い出す。 「い、彩葉?」  彩葉が顔を上げる。その顔は本当に楽しそうに笑っていた。彩葉? 「あははははは!」  声を上げて笑い、躊躇うことなく自分の左腕を切りつけた。 「彩葉!」  1回、2回……あっという間に彩葉の左腕は血だらけになる。 「止めろッ!」  どうしてこんなことをする!? どうして、どうして!? 「止めろ、彩葉! 止めろッ!」  右手を(はた)いて包丁を叩き落とす。 「彩葉、傷を見せろッ!」  包丁を手放したことで終わったと思ったのに。彩葉の手には、もう1本包丁が握られていた。その切っ先は、やはり俺に向けられていて──  彩葉の左腕の具合を見ようとして近付いた俺の腹部に……差し込まれた。  え……?  え……? え? 何で? 彩葉が俺を刺した? 何で? 何で俺、彩葉に刺されてんの? 恋人なのに?  一瞬茫然としたあとに、猛烈な熱が襲ってきた。まるで真っ赤に焼けた鉄の棒を突っ込まれたみたいだ。脈に併せて熱が暴れまわる。 「い、彩葉……ッ、何でッ!?」  腹を押さえて膝を着いた俺を見下ろす彩葉の顔は、見たことのない表情を浮かべている。別人のようだ。 「何で……? 理由、判らないの?」  表情を動かさないまま呟き、包丁が俺の左肩をかすった。ビリッとした痛みが走る。 「彩葉……ッ!」 「判らない? あなたのことが、心底憎いからよ」  じわりじわりと、腹が赤く染まっていく。憎い? 彩葉が、俺を? 何で? 「何、で……」 「何で? 判らないの? 馬鹿なの?」  目眩がする。本当に目の前に居るのは、彩葉なのか? 「あなた、私に何をしてきたか忘れたの? 私がどんな地獄の日々を送ってきたのか知らないの」  腹は灼熱の嵐が暴れまわっているのに、背中は大きな氷の塊を放りこまれたようだ。 「俺、が……」 「あなたはちょっかいだなんて軽い言葉を使ってたわね。子どもだったから好きな子にちょっかい出してたって。それをされてた私は毎日が地獄だったわよ!」  そんな。 「二度と会いたくなかったあなたに再会して、昔から好きだった? ふざけないでよ!」  落とした包丁を拾い、彩葉はまた自分の身体を傷付ける。 「あなたなんか大ッ嫌い。目の前から消えて」  俺を見る彩葉の目は、何の感情も浮かべていない。 「俺を……殺すのか?」  恨みか。例えそんなことをしても、彩葉の人生も終わりだ。 「これは正当防衛だもの。罪には問われない」  何を言っている? 「あなたは私を小、中学に渡って執拗に虐めた。同窓会で再会して、それから私をストーキングするようになった」  俺は耳を疑った。何を言っているんだ!? 「彩葉!?」 「あなたなんかに好かれたくない。二度と会いたくなかった。私はいい加減あなたから解放されたいの。だから、あなたは消えて」 「お、俺を殺したってすぐ捕まるぞッ!」 「だから正当防衛だって言ったでしょ」  俺を見る彩葉の目は侮蔑の目だ。俺は、そんなにも彩葉に嫌われていたのか? 「日本の警察から逃げ切れるわけないわ。完全犯罪を達成出来るとも思わない。だったら(さら)け出してしまえばいいのよ」  嬉しそうに呟く彩葉から目が放せない。 「あなたは私のストーカー。再会してしまったあの日から私を付け回した。電話の強要や、家への押し掛け、無理矢理連れ回す……そんなストーカー行為を行った。全部、日記に書いて記録してあるから」  一瞬痛みも忘れて立ち上がり、彩葉の両肩を掴んだ。油断していたのか彩葉は驚いた顔をしながら、それでも包丁をかざして俺の頬を切る。力が抜けた隙に突き飛ばされた。その衝撃で腹に刺さったままの刃の向きが変わったのか、痛みが脳天に走る。 「挙げ句に独り暮らしの私が()()()()()()()()()()()()()に部屋に押し入ってきた。襲われると思った私はキッチンにあった包丁で抵抗。誤って刺してしまったけれど、身を守るための正当防衛よ」 「ふざけるな! 俺はそんなことしていないッ!」  ただ好きだっただけだ! それなのに……ッ! 「……あんたはそれぐらいのことをしてきたの。私に。謝罪も満足にしないで、好きだったから? ふざけてんのはあんたよ」  突き飛ばされてそのまま動けない俺に近付き、彩葉は笑顔で囁いた。 「あんたなんか大ッ嫌い。完全犯罪は無理だけど、私の正当防衛だから」  振り上げられる包丁をただ茫然と見る。 「ストーカーの汚名を着て──死んで」
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