4人が本棚に入れています
本棚に追加
「彩葉!?」
キッチンに包丁があるのは判る。それを彩葉が握っているのも判る。だけど、その刃の切っ先を俺に向けているのが判らない。
「彩葉……危ないだろ!? それを下げろ!」
思わず怒鳴り声を出してしまった。再会した彩葉に絶対に声を荒げないと密かに決意していたのに。でもそれどころじゃない。額から、背中からブワッと汗が吹き出す。何だ!? 彩葉は何を考えている!?
「お、落ち着け……彩葉。話なら聞くから」
切っ先が蛍光灯の光を反射させて鈍く輝く。よっぽどの何かがあったんだ。それを取り除いてやらないと。
「何があったんだ? そんなに辛いことかあったのか? な、話聞くから。そんなのしまって、何でも言ってくれよ」
必死に捲し立てる。思いもよらない展開で、情けないことに脚が震えている。彩葉は至って冷静だ。冷静そうに、見える。
「彩葉!」
彩葉が俯いた。よし、俯いた隙に包丁を取り上げて……と思ったところで、ふ、と笑った気配がした。肩を揺らして笑い出す。
「い、彩葉?」
彩葉が顔を上げる。その顔は本当に楽しそうに笑っていた。彩葉?
「あははははは!」
声を上げて笑い、躊躇うことなく自分の左腕を切りつけた。
「彩葉!」
1回、2回……あっという間に彩葉の左腕は血だらけになる。
「止めろッ!」
どうしてこんなことをする!? どうして、どうして!?
「止めろ、彩葉! 止めろッ!」
右手を叩いて包丁を叩き落とす。
「彩葉、傷を見せろッ!」
包丁を手放したことで終わったと思ったのに。彩葉の手には、もう1本包丁が握られていた。その切っ先は、やはり俺に向けられていて──
彩葉の左腕の具合を見ようとして近付いた俺の腹部に……差し込まれた。
え……?
え……? え? 何で? 彩葉が俺を刺した? 何で? 何で俺、彩葉に刺されてんの? 恋人なのに?
一瞬茫然としたあとに、猛烈な熱が襲ってきた。まるで真っ赤に焼けた鉄の棒を突っ込まれたみたいだ。脈に併せて熱が暴れまわる。
「い、彩葉……ッ、何でッ!?」
腹を押さえて膝を着いた俺を見下ろす彩葉の顔は、見たことのない表情を浮かべている。別人のようだ。
「何で……? 理由、判らないの?」
表情を動かさないまま呟き、包丁が俺の左肩をかすった。ビリッとした痛みが走る。
「彩葉……ッ!」
「判らない? あなたのことが、心底憎いからよ」
じわりじわりと、腹が赤く染まっていく。憎い? 彩葉が、俺を? 何で?
「何、で……」
「何で? 判らないの? 馬鹿なの?」
目眩がする。本当に目の前に居るのは、彩葉なのか?
「あなた、私に何をしてきたか忘れたの? 私がどんな地獄の日々を送ってきたのか知らないの」
腹は灼熱の嵐が暴れまわっているのに、背中は大きな氷の塊を放りこまれたようだ。
「俺、が……」
「あなたはちょっかいだなんて軽い言葉を使ってたわね。子どもだったから好きな子にちょっかい出してたって。それをされてた私は毎日が地獄だったわよ!」
そんな。
「二度と会いたくなかったあなたに再会して、昔から好きだった? ふざけないでよ!」
落とした包丁を拾い、彩葉はまた自分の身体を傷付ける。
「あなたなんか大ッ嫌い。目の前から消えて」
俺を見る彩葉の目は、何の感情も浮かべていない。
「俺を……殺すのか?」
恨みか。例えそんなことをしても、彩葉の人生も終わりだ。
「これは正当防衛だもの。罪には問われない」
何を言っている?
「あなたは私を小、中学に渡って執拗に虐めた。同窓会で再会して、それから私をストーキングするようになった」
俺は耳を疑った。何を言っているんだ!?
「彩葉!?」
「あなたなんかに好かれたくない。二度と会いたくなかった。私はいい加減あなたから解放されたいの。だから、あなたは消えて」
「お、俺を殺したってすぐ捕まるぞッ!」
「だから正当防衛だって言ったでしょ」
俺を見る彩葉の目は侮蔑の目だ。俺は、そんなにも彩葉に嫌われていたのか?
「日本の警察から逃げ切れるわけないわ。完全犯罪を達成出来るとも思わない。だったら曝け出してしまえばいいのよ」
嬉しそうに呟く彩葉から目が放せない。
「あなたは私のストーカー。再会してしまったあの日から私を付け回した。電話の強要や、家への押し掛け、無理矢理連れ回す……そんなストーカー行為を行った。全部、日記に書いて記録してあるから」
一瞬痛みも忘れて立ち上がり、彩葉の両肩を掴んだ。油断していたのか彩葉は驚いた顔をしながら、それでも包丁をかざして俺の頬を切る。力が抜けた隙に突き飛ばされた。その衝撃で腹に刺さったままの刃の向きが変わったのか、痛みが脳天に走る。
「挙げ句に独り暮らしの私がひとりで夕食を摂っている時に部屋に押し入ってきた。襲われると思った私はキッチンにあった包丁で抵抗。誤って刺してしまったけれど、身を守るための正当防衛よ」
「ふざけるな! 俺はそんなことしていないッ!」
ただ好きだっただけだ! それなのに……ッ!
「……あんたはそれぐらいのことをしてきたの。私に。謝罪も満足にしないで、好きだったから? ふざけてんのはあんたよ」
突き飛ばされてそのまま動けない俺に近付き、彩葉は笑顔で囁いた。
「あんたなんか大ッ嫌い。完全犯罪は無理だけど、私の正当防衛だから」
振り上げられる包丁をただ茫然と見る。
「ストーカーの汚名を着て──死んで」
最初のコメントを投稿しよう!