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「レンゲちゃん、現在に帰りたい」
浅葱が呼び掛けると、目の前にレンゲちゃんが現れた。
「心残りはない?」
「ない。もういい」
「じゃ、帰ろうか」
「お願いします」
レンゲちゃんと両手を取り合う。
気が付くと、駅のホーム。
“各駅停車が到着いたします。白線の内側でお待ちください”
会社員としてあの会社で働いている状況は変わっていない。
浅葱は、過去を帰ることより未来を変えることを選んだ。
やってきた各駅停車に、大勢の乗客たちと乗りこんだ。
会社につくと、喫煙室でタバコを吸っているリーダーのところに行った。
「誰か捜しているのか?」
「はい。リーダーを捜していました」
「何?」
「相談があります。会議室で話したいんですが」
「ああ、いいよ」
リーダーは、タバコの火を灰皿でもみ消した。
二人で空いている会議室に入ると、浅葱は、すぐに辞意を表明した。
「私、会社を辞めます」
リーダーは唖然とする。
「え? 辞めるの」
「はい。この会社に貢献する自信がなくて……」
「……ああ、そう。分かった。所定の退職届が人事のドキュメントフォルダにあるから、それを人事に提出してくれ。……ヤレヤレ、人員計画を見直さないとな」
リーダーは飲み込み早く承知すると、さっさと切り上げて出ていった。
外で「根性ねえなあ」という、リーダーのぼやきが聞こえた。
惜しまれることもなく、引き留められることもなく。辞める理由を聞かれることもなく終了。
もっと強く引き留められるかと思っていた浅葱は、肩透かしを食らった気分。
(何て言おうかと悩んでいたけど、無駄だったなあ。笑える……)
なぜ辞めるのか、ヒアリングがあってもいいと思うのだが。
こんなことでは、これからもこの会社は変わらないだろう。
(本当に期待されていなかったんだな)改めて思った。
リーダーは、浅葱の喪失を惜しむより、自分の仕事が増えたことだけを気にしていた。
どうせ頭数さえあれば、どんな仕事もできると思っているのだ。
自分なりに組織の一員として貢献しようと奮闘してきたが、何の意味もなかったということだ。
オフィスに戻ると、パンダの諸田がお菓子を食べながらネットサーフィンしている。
お調子者の首浦は、自分で持ち込んだバランスボールを椅子替わりに座り、背中に孫の手を入れてマッサージしている。
どれもふざけているようにしか見えないが、ここにいる限り、彼らが正解なのだろう。
一日中、真面目にやっていた自分がバカだったのだろう。
「ハハハ……」
乾いた笑いが口から零れる。
浅葱の笑い声に、諸田と首浦がギョッとして注目した。
「色川さんが、笑ってる……」
「とうとう、頭がいっちゃった?」
彼らが浅葱の笑うところを見たのは、これが最初で最後となるだろう。
浅葱は、笑うのを止めて仕事を始めた。
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