171人が本棚に入れています
本棚に追加
◇
深夜1時の丑の刻。浅葱は『蘇芳』の暖簾をくぐった。
「いらっしゃいませ」
レンゲちゃんが浅葱に笑顔を向ける。
「こんばんは。先日はありがとうございました」
「あれからしばらく顔を見なかったから、心配していたんだ」
「いろいろあって、ちゃんと報告ができるようになってからここに来ようと思ったの」
奥にいる炎加にも改めてお礼を言う。
「炎加さんに助けてもらわなければ、死んでいました。本当にありがとう」
炎加は何も言わないが笑顔。
笑っても黙っていてもイケメンだけど、カマイタチだと思うと残念な気がする。
「炎加さんって、寡黙ですね」
「ごめんね。炎加は人見知りなんだ」
レンゲちゃんが代わりに答えた。
「炎加の人助けはいつものことだから。それより、結局進路を変えなかったんだね」
「うん。過去は変えなくていいかなって思い直して、就職で出したの。間違っていたのは自分だったし、まだやり直しはできると思えたから。それで、会社を辞めました」
浅葱は、清々しく報告した。
「辞めちゃったんだ」
「うん。辞めたら、綺麗さっぱり、スッキリ、清々しい」
後悔の念は微塵もない。
あの時はあの時にできる最善の選択をしたのだと、過去に戻って強くそう思った。
「高校を卒業して働いた数年間は、決して無駄じゃなかったと思うの」
苦しいなりに頑張ってきた自分を、今はゆっくり労いたいと思う。
カウンターに座ると、レンゲちゃんに聞いた。
「お勧めの日本酒は何ですか」
「本日は、信州亀齢ね。香り極上、味天国よ」
「飲んでみたいので、それをください」
出された信州亀齢を一口飲んだ。
苦みと辛みが程よく、僅かな酸味でのど越しすっきり。
思わず旨いと叫びたくなるが、叫ぶ前に二口目、三口目を飲んでしまうから感想を口にする暇もない。
「今日のおばんざいは、身欠きニシンの酢の物。栗の渋皮煮。緑豆もやしと糸こんにゃくのピリ辛ごま油炒めです」
浅葱は、左手におちょこ、右手に箸のスタイルで交互に手を動かし、飲んでは食べて、食べては飲む。
蘇芳のおばんざいには、不思議は力がある。
食べれば食べるほど健康になる気がするから、いくらでも食べてしまう。
最初のコメントを投稿しよう!