色川浅葱

25/26
前へ
/102ページ
次へ
◇  深夜1時の丑の刻。浅葱は『蘇芳』の暖簾をくぐった。 「いらっしゃいませ」  レンゲちゃんが浅葱に笑顔を向ける。 「こんばんは。先日はありがとうございました」 「あれからしばらく顔を見なかったから、心配していたんだ」 「いろいろあって、ちゃんと報告ができるようになってからここに来ようと思ったの」  奥にいる炎加にも改めてお礼を言う。 「炎加さんに助けてもらわなければ、死んでいました。本当にありがとう」  炎加は何も言わないが笑顔。  笑っても黙っていてもイケメンだけど、カマイタチだと思うと残念な気がする。 「炎加さんって、寡黙ですね」 「ごめんね。炎加は人見知りなんだ」  レンゲちゃんが代わりに答えた。 「炎加の人助けはいつものことだから。それより、結局進路を変えなかったんだね」 「うん。過去は変えなくていいかなって思い直して、就職で出したの。間違っていたのは自分だったし、まだやり直しはできると思えたから。それで、会社を辞めました」  浅葱は、清々しく報告した。 「辞めちゃったんだ」 「うん。辞めたら、綺麗さっぱり、スッキリ、清々しい」  後悔の念は微塵もない。  あの時はあの時にできる最善の選択をしたのだと、過去に戻って強くそう思った。 「高校を卒業して働いた数年間は、決して無駄じゃなかったと思うの」  苦しいなりに頑張ってきた自分を、今はゆっくり労いたいと思う。  カウンターに座ると、レンゲちゃんに聞いた。 「お勧めの日本酒は何ですか」 「本日は、信州亀齢(しんしゅうきれい)ね。香り極上、味天国よ」 「飲んでみたいので、それをください」  出された信州亀齢を一口飲んだ。  苦みと辛みが程よく、僅かな酸味でのど越しすっきり。  思わず旨いと叫びたくなるが、叫ぶ前に二口目、三口目を飲んでしまうから感想を口にする暇もない。 「今日のおばんざいは、身欠きニシンの酢の物。栗の渋皮煮。緑豆もやしと糸こんにゃくのピリ辛ごま油炒めです」  浅葱は、左手におちょこ、右手に箸のスタイルで交互に手を動かし、飲んでは食べて、食べては飲む。  蘇芳のおばんざいには、不思議は力がある。  食べれば食べるほど健康になる気がするから、いくらでも食べてしまう。
/102ページ

最初のコメントを投稿しよう!

171人が本棚に入れています
本棚に追加