色川浅葱

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 炎加が、「天麩羅盛り合わせ」と、レンゲちゃんに皿を回してきた。  それが浅葱の目の前を通っていく。  アツアツの天麩羅からは、油を含んだ白い湯気が立ち上がっている。  エビ、カニ、マツタケ、ギンナン、モミジ。  秋の味覚が勢ぞろい。 (うわ、美味しそう!)  レンゲちゃんが速やかに他の客に提供した。  「お待たせしました」 「あれ、他にもお客さんがいたんだ……」  ずっといたのだろうけど、まったく気に留めなかった。  見たところ、30代のサラリーマン。  一人飲みのようで、カウンターの端に小さく隠れるように座っている。  浅葱もお酒を楽しむ自由を手に入れた20歳ごろは、気楽に一人飲みを楽しんだ時期もあった。 (あの頃は、余裕があったな)  日曜には昼のみであちこち安い酒場を渡り歩いていた。  すでに懐かしくなっている。  店内で騒いでしまって、さぞかし興醒めだったろうと少し反省する。 「私、騒いでしまいました、すみませんでした」 「いえいえ。気にしていません。私、諏訪といいます。サラリーマンです」  気さくで優しい人柄に見える。 「ここの天麩羅はとても軽くてサクサクで格別なんですよ。おっと、全部美味しいんですけどね。よかったら、一つどうぞ」  諏訪が自分の皿を差し出してきたが、浅葱は遠慮する。 「大丈夫です。自分で注文しますから」  断ったが悪い気はしない。  この店には、たまたま隣り合った初対面の人とも気さくに会話できる雰囲気がある。  それはきっと、レンゲちゃんがそばで見ているから。  子どもなのに、安心感を与えてくれる不思議な存在。 (ここを知っていたら、一人飲みに来ていたのに……。あれ? でも、この店って、どこにあるんだろう? 私、どうやってきた?)  肝心な部分の記憶が抜け落ちている。  場所を知らなければ帰ることもできない。  丑の刻横丁をスマホで調べてみる。  検索結果に何も出てこないからレンゲちゃんに聞いた。 「あの、ここの住所はどこですか? 最寄り駅は?」 「ここは銀座9丁目。最寄り駅は銀座ですよ」 「会社のすぐそば!?  丑の刻横丁なんてあった? 全然、気付かなかった」  諏訪が笑いながら話してきた。 「この辺りは、一本道が違うだけで全く雰囲気が変わる。私も昼間は気が付かない。夜になると浮かび上がってくるから、明かりに近寄る虫のように、つい足が向かってしまうんだ」  諏訪も日本酒を飲んでいて、すでに酔いが回っている。
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