色川浅葱

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「レンゲちゃんに驚くのは分かります。私も、初めてここに来たときは驚きました。でもね、すぐに慣れるもんです。そして、レンゲちゃんの顔を見たくなって通い始める」  微妙に諏訪の眼鏡の位置がずれている。 「ここに来る前は、仕事がうまくいかず大変な時でした。私、取引先に一千万円の小切手を騙し取られてしまったんです」 「一千万は大変な額ですね」  ずれた眼鏡の方が気になりながら相槌を打つ。 「会社の資金繰りに大きく影響しますからね。社長から強く叱責された私は、責任を取って死のうと思いました」 「え、死のうとしたんですか!?」  ここで諏訪自身が気になった。  浅葱も毎日死にたいと考えていたから、同志を見つけたような気になった。 「そうです。でも、大丈夫。こうして生きているでしょ。結局、死んでいません」  諏訪が笑いながら眼鏡のずれを右手の人差し指で直した。 「会社の入るビルの屋上に登ったんです。そこから銀座の夜景を眺めていると、ここの赤ちょうちんの灯が目に飛び込んできた。とても心惹かれて、死ぬ前に最後の晩餐も悪くないかと思って、フラッと入ったんです。それでレンゲちゃんを知りました。子どもがお酒を勧めて、料理を作って運んでいるって驚いてね。最初は、期待していなかったんですよ。子どものおままごとだと思うでしょ。だけど、食べてみると絶品じゃないですか。すっかり虜になってしまいました。来てよかった」  諏訪の語りが止まらなくなってきた。 「レンゲちゃんの得意料理は、サバの味噌煮なんですよ。ここにきたら、まず、サバの味噌煮を食べることにしています」  天麩羅の横には、サバの味噌煮の食べ終わった皿が置いてある。  レンゲちゃんが横から口を挿んだ。 「諏訪さん、私の料理は何でも美味しいでしょ」 「ああ、そうだね。ごめんね。私はサバの味噌煮が大好きなんだ。いろんなお店で食べてきたけど、レンゲちゃんの作るのが一番好きなんだ」  諏訪は、レンゲちゃんに謝っているが嬉しそうだ。 「何故かと言うと、故郷の味がするから。私の故郷と同じ味噌なんだ」 「へえ、味噌って、日本全国で味が違いますよね。白味噌、赤味噌、八丁味噌……。他に何があったっけ」 「信州味噌、仙台味噌。もっとある。米味噌、麦味噌、豆味噌など、原材料も違う。配合の組み合わせは無限ともいえる。それが、同じ味になるなんて奇跡です」  浅葱はレンゲちゃんに聞いた。 「この人の故郷と同じ味噌を使っているって、たまたまだったの?」 「えへへ」  レンゲちゃんは何も教えてくれない。 「ここのサバの味噌煮を食べた瞬間、それまでの絶望がどこかへ消えた。レンゲちゃんのおばんざい。炎加君の天麩羅も絶品。こんなに美味しいものを食べずに死んだら勿体ないって思った」  酒を飲む手を休めることなく、しみじみ、語る。
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