第一章

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 神国は本来、未来都市の何百倍にも及ぶ領土をもつ、小国だったらしい。  その姿は半径二十キロに満たない丸い円状になっており、中央に存在する神王殿からみて東西南北に、それぞれ区分けされていた。  北区に貴族群の屋敷があり、南区は一般市民の民家が並ぶ。  東区は文化の発展目覚ましいビル群になっており、美術館や博物館、大聖堂など、大人数が集まるだろう建築物の群れとなっていた。  かつては、その何百倍あったという我が国でさえ「小国だった」というのだから、諸外国はどれほどの巨大国家だったのだろう。  現在では外交も消え失せ、外国の存在は噂でさえ聞かなくなってしまった。書物に残る情報のみの存在であり、今でも存在しているかどうかすら、怪しいという。  律は、見張りの警備兵に書類を見せると、庭園に入った。学習校舎のある、広大な庭園ではない。  神王殿の中央部。  神王が住まう王宮――内宮を囲む、四季のしばりを持たぬ庭。  名もなき庭だ。  律の立場上、ここへの出入りは許されない。  つまり、足を踏み入れたのは今回が初めてだった。  美しく揃えられた、茶色の石畳を踏みしめながら、名もなき庭を歩く。  石畳の両端に、赤や黄色、青に紫といった色とりどりの花々が咲き乱れている。今まで律が生きてきた二十数年のなかで、一度たりともみたことのない花だ。  薬草以外の草花にはあまり詳しくない律だが、もしかするとこの花たちにも名前がないのではないか、と思った。なにしろこの庭の名前こそが――名もなき庭、なのだから。  石畳は、途中で二つに分かれていた。その片方はまっすぐ内宮へ向かっているが、途中でまた、別の道へも続いている。  垣根を過ぎた辺りで、律は足を止めた。 「……すごい」  道を反れた庭の内深くで、桃色の花びらが舞っている。  あれは、桜だ。  桜の木々と、その間に混じるように生えている、紅葉ゆたかな赤や黄色のもみじ。  その間を舞う、青や白をした蝶が、不思議な夢見心地な気分にさせる。  近くには白い縁に囲まれた噴水があり、静かに流れる水によって、透明すぎる水面がわずかな波紋を広げていた。  その水面付近にも蝶が二羽、じゃれあうように飛んでいる。  噴水の隣には石畳が続いており、終着点に東屋がみえた。  噴水同様の白い枠でつくられた小さな建物で、なかにはお茶をするくらいなら十分だろう、洒落た机と椅子が置かれている。 「こんなに、綺麗だなんて」 「だろう。俺もめっちゃここ好きなんだよなー」  律は、飛び上がった。  慌ててふり返ると、ニヤニヤ笑う白衣の中年男がいる。  白衣はよれよれ。  ズボンはだらだら。  短い髪はぼさぼさで、その癖にひげだけはやけに小奇麗に剃っている上司の姿に、律は静かにため息をついた。 「おどかさないでください。三ツ谷(みつや)先生も、呼ばれたんですか」 「おう。つーことは、お前もか」  渋い顔をする上司――三ツ谷徹(とおる)に、律は自分のなかで一気に緊張が高まるのを感じた。医者を呼ぶということは、神王の体調が思わしくないということになる。  真実かは不明だが、ここ数年、神王交代という噂まで流れる始末だ。 「そんな顔すんなって。この俺が診てんだから、神下になにかあるはずがねぇし」  苦笑を浮かべて、バンバンと三ツ谷は律の肩を叩いた。 「さ、行こうかー」  三ツ谷は、神王専属医だ。  神王以外の人間を診ることは許されず、内宮付近にある離宮で暮らしている。  神王専属医は医師団をまとめる長官の地位を兼ねるのが妥当で、すべての医者の上司でもあった。  国でもっとも腕のいい医者が、この地位につく。  つまり、たとえ学習校舎を出ておらずとも、知識をつけ、実践をこなせば、最高医の地位――つまり、貴族位が貰える職種でもあるのだ。 「あ、つか。お前内宮に入れないよなぁ」  足を止めた三ツ谷は、律をふり返った。  内宮は、神王とそれに仕える神官と巫女しか入れない。専属医である三ツ谷も許可されているが、その他の人間は、たとえ貴族であっても足を踏み入れることが許されていないのだ。  もしかしたら、と期待していたこともあり、律は少なからずショックを受けた。  やはり、神王殿の医師というだけでは無理があるらしい。貴族でもないし。 「ちょっと書面みせてくれ」 「はいー。これですが」 「あー。やっぱ駄目だ。つうことは、ゆあらが来てるはずなんだが」  姫巫女を呼び捨てにして、三ツ谷は辺りを見回す。  この書類は、ゆあらから送られてきたものだ。話があるが多忙ゆえ、特別に許可をだすから名もなき庭までこい、といった内容のものだった。  貰った瞬間の、不祥事をしでかしたのかと冷や汗をかいた感覚が蘇り、律は緊張を高めた。  そうだ、庭に見入っている場合ではない。  だが、三ツ谷もいるということは不祥事ではないのだろう。  そもそも何かしでかしてしまったのなら、問答無用で厳罰を食らう――少なくとも、姫巫女がわざわざ呼び出すことはない。  石畳の先。  内宮のなかへ続くだろう門が、開いた。  音もなく開いたために、三ツ谷は開いたことにさえ気づいていないようで、見当違いの方向を見回している。  ドアの中央に、軍服姿をした十代半ばほどの歳をした少女――ゆあらが、立っていた。 「待たせてごめんなさい。そこの東屋にきてくれる?」 「お。きたか、ゆあらー。茶も出してくれんの?」 「……煎れてあげるわよ、それくらい」  なんと大それた口をきくのだろう、この横柄な男は。  姫巫女が相手でも変わらぬ態度らしい。  さすがに神王には礼を弁えているだろうが、大丈夫かと不安に思えてくるのは、律自身が三ツ谷の飄々とした態度しか知らないせいだろう。  律は女として、そして神王を敬愛する身として、ゆあらを尊敬している。  彼女も元はクローンとして、同じように施設で生まれたそうだが、すぐに素質ありと判断され、幼いうちに神王殿に引き取られたという。  いわば、エリート中のエリートなのだ。  前の姫巫女も歳若い女性だったそうだが、神王の言葉を受けて伝えるだけの役目しか負わず、ゆあらのように自ら行動を起こすようなことはしなかった。  神王に従うだけが本来の姫巫女の役目だが、ゆあらはその型を破り、研究や軍部をはじめ、多くのことに関わっている。  閣僚にはよく思わない者も多いときくが、少なくとも学習校舎や研究所内で彼女の批判を聞いたことはない。  噂でさえ批判的な言葉を聞かないのは、こちらでは受け入れられている証拠でもあった。  高みの見物をする姫巫女よりも、自分たちと共に身体を張り、神王のために力を尽くす姿勢の方が、尊敬の対象になりやすいのは確かである。  東屋へ移動すると、ゆあらに進められるまま椅子に座った。  三ツ谷もまた、にやにやと笑いながら、その隣の椅子に座る。 「律のその席、いつも神下が座るとこだぁ。嬉しい?」 「え!」  慌てて立ち上がろうとした律に、ゆあらが「いいのよ」と言って笑った。 「三ツ谷医師は、いじわるなんだから。気にしないで、座ってね」 「なんだよ、教えてやったんじゃん。嬉しいかなぁって」 「子どもみたいなこと言わないの。あ、紅茶はレモンでいいかしら」 「お、おかまいなくっ」 「はははは、緊張してやがんの」  姫巫女にそんなことさせていいのか、と思ったが、自分が煎れたものを清浄なる姫巫女に飲ませるのもまずい気がした。  備えつけの茶器でてきぱきと茶を煎れるゆあらを、律は尊敬のまなざしで見つめる。  言葉を交わすのは初めてではないが、やはり素敵な方だ。  儚い巫女のイメージと違い、頼りになる逞しさがある。  サバサバした言葉使いも、やたら偉そうぶったヤツらより幾分も好感がもてた。  紅茶が目の前に置かれると、ゆあらもまた、空いている椅子に座った。 「早速なんだけど、聞きたいことがあって」  ゆあらはそう言うと、鞄から新聞を取り出して机の上に置いた。  三ツ谷が新聞を広げると、いつも通り、反社会主義派に関しての見出しが飛び込んでくる。 「三ページの、下をみて。顔が乗ってるから」  ページをめくると、たしかに左下の方に小さな顔写真が三つ乗っている。  どれも知らない顔だが、ずいぶんと人相が悪い。  小さな活字で、主犯判明か、と書かれていることから、この者たちが反社会主義組織イデアの幹部なのだろう。 「これが、なんだっていうんだ。医者の俺らには関係ないだろ」 「真ん中の辰巳という男が、中心人物みたいなの」 「へぇ。悪そうな顔してんなぁ」 「その男ね、敷島教授の秘書だったのよ」  律は、納得した。  敷島邸襲撃事件は、未だに調査中だという。  クローン研究に関する書物は燃えるは、有能な研究員は殺されるはで、バイオ研究に甚大な損失を与えたらしい。  たしか、半月ほど前に診た美玖という少年も、敷島邸から救助された義理の息子だときいている。 「美玖を手当てしたのは、あなたよね」 「はい」  案の定、美玖のことだ。 「そのとき、なにか言ってなかった?」  なにか、という抽象的な言い回しに、ぼんやりと当時の情景を思い出す。  運び込まれた美玖は、意識はなかったものの、背中の傷は塞がっていた。  律のもとに来る前に一度バイオ研究所内で治癒されたらしく、細胞組織の再生は完了していたのだ。  残っていた大きな傷あとも、時間が経つにつれ脅威の再生力で消え去り、本人が目覚めるころにはほとんど完治していた。  気がついた美玖は、ベッドから起き上がって――。 「そういえば、ご家族のことを気にしてました」 「家族、ね」 「はい。無事なのかと、心配みたいで。すぐにでも助けにいきたい様子でしたが」 「辰巳に関しては何も言ってなかった?」 「なにも聞いてません」  ふむ、とゆあらは顎に手を当てた。 「その子が、なんか関係あんのー? 被害者じゃねぇか」 「わからない。でも、今回の襲撃、おかしいのよ」 「なにが?」  あっさり機密事項に首を突っ込もうとする上司を睨みつけた。そんな律をみたゆあらが、苦笑する。 「いい部下ねぇ。破天荒な三ツ谷医師とは大違い」 「俺に似たからいい部下になったんだろ」  ゆあらは、紅茶に口をつけた。ふぅと露骨にひと息ついたあと、今度は別の書類を渡してきた。 「今回の襲撃は、あらかじめ緻密な計算が練られてたの。まぁ、クローン研究に関して手に入れたいと切望してるなら、それくらいするだろうけど」  書面には、見知らぬ人名がびっしりと書かれている。ほとんどが名前だけのもので、字持ちでさえない一般市民だ。なかには苗字のついた貴族もおり、その中に、何人か聞いた覚えのある名前もある。 「これはなんだ」 「死亡リスト。敷島邸襲撃事件のね」 「こんなにか。多いな。つか、貴族多すぎねぇ? パーティでもやってたのか」 「研究報告会があったんですって」 「そこに襲撃、か。敵は見越してたのか、たまたまか。お、これは」  紙は何枚か重なっており、死亡リストの下にはまた別のリストがあった。覚えのある言葉の羅列が並ぶそれには、心当たりがある。律自身も、過去に何度も書いたことがあるからだ。 「死亡診断書か。ずいぶんと簡単にまとめてあるなぁ」 「人数が多いもの。やっと全員割り出せたのよ」  律は、覗きこむようにして診断書リストの名前と死亡原因に目を通した。そのほとんどが脳天を撃たれての即死だという。  それに加え、人体の損傷が激しい。  すべてではないにしろ、五体のどこかしら欠けている死体が九割以上だ。顔面は鈍器で殴られたようにつぶされ、これが素性の特定に時間がかかった一番の原因だろう。  つまり犯人は、先に頭を撃ち抜いて殺害したあと、死体をわざと壊したのだ。  いくら鈍い鈍いと言われている律にも、この遺体たちの不自然さは一目瞭然だった。 「おかしいな。何があったんだ、これ。猟奇的にもほどがあるだろ」 「微量の薬物が検出されてるの。つまりね、即死の人たちはみんな、事件当時眠ってたのよ。薬を盛られてたみたい」 「……辰巳が、仲間が侵入しやすいように薬を盛ったってことか」 「そうかもしれないし、違うかもしれない。たとえそうだとしても、死体をいじる必要なんてないわ」 「言いきったな」 「だって、辰巳なら大量殺戮したあと、警備隊に気づかれずに一人で屋敷を抜け出せるのよ? それをわざわざ、警報機に感知されるほど、大量の仲間を外部から呼んだ。しかも、呼んだ仲間と一緒に警備隊がくるまで、ずっと死体の顔を壊しまくってたみたい。無事だった防犯カメラに写ってたわ」 「……なんか、わざとらしいな。アレじゃん? よくトリックにあるじゃん。わざとカメラに映したりしてさー」 「本の読みすぎ。現実問題、そうはいかないから。彼らも、もう少しで警備隊に捕まるところだったし。カメラも、本当は全部壊したかったんじゃないかしら」  辰巳が、屋敷の者たちを殺した。  そして人手は手薄になったところに仲間を呼び、その際に屋敷のセイキュリィが感知。  結果、警備隊が動いたということになる。 「たまたま残ったカメラに、辰巳らの奇行が残ってたってことだよな」 「ええ、一部始終のみだけど」 「一人でこの人数の脳天をぶち抜いたってのか、随分と賭けだな。いくら眠らせてたからって、誰か一人でも起きて悲鳴をあげたら、他のやつらも起きかねないだろ」 「その点は、別に仲間がいると思うの」 「仲間? 敷島邸は、神王殿からもセキュリティで監視してる。部外者は入れない。だからこそ、内部にいた辰巳だって犯人割り出せたんじゃねぇの」  確かにそうだ。  敷島邸の防犯セキリティは、他にないほど高度なものが設置されているはず。  クローン研究は、神国でもっとも優先されるべき研究なのだから。 「そうね。辰巳は元々別件でも怪しんでたんだけど、それを別にしてもたしかに、敷島邸のセキュリティは神王殿で管理しているし、敷島邸内部からといえど変更や解除は不可能だわ」 「じゃ、尚更仲間なんて無理じゃん。誰も侵入してないんだろ? 事件前には。あれ、でもそれだとやっぱり、辰巳一人でやったことになるよなぁ」 「そう。事件前に屋敷内にいた者たちと、死体となって転がっていた者たちは一致する。辰巳と美玖の二人をのぞいてね。だからこそ、辰巳が犯人だという目星をつけて行動できたの」  つまり、事件が発覚する以前に、屋敷内に部外者が侵入していたということはない。屋敷で眠る住人たちの頭を撃ち抜いていったのは、内部のものでしかありえないのだ。  まとめると、事件当時屋敷内の住人は薬物で眠っていた。  そこに辰巳が銃をもって一人一人殺害。    のちほど、仲間が敷島邸に乗り込んできて殺害済みの住人らの身体を壊していった、ということになる。 「じゃあやっぱり身体が壊されてたのは、辰巳が犯人だってことを誤魔化すためか……でもやっぱり、屋敷にいたこれだけの人間を一人で殺すなんて、無理なんじゃ」 「だから、仲間がいたと思うのよ」 「おい、まさか美玖って子がそれとかいうんじゃ」  律は、身体が強張るのを感じた。  ほぼ同時に、ちらりとだけ、ゆあらの視線が自分へ向けられる。 「どうかしら。ただ……ああ、ここのところ。死亡原因みて。屋敷の使用人のなかには、即死じゃない者もいる。胸や背中を撃たれて、廊下や庭で倒れるように死んでいた。彼らは、間違いなく襲撃寸前まで生きていた」 「こいつらが、辰巳側の者だったってことか。でも死んで……まさか、証拠隠滅のために殺したのか」 「おそらく」 「そこまでして、辰巳は、何を隠したんだ」 「わからないわ」  ゆあらはまた、紅茶を口に運ぶと、そっと息を吐いた。  彼女にとって静かに息を吐くことは、話題を変えるという意味でもあるらしい。 「たしか、彼もそうだったわよね」  ゆあらの視線が、律へと向けられる。  じっくりと観察するような眼差しが、律の身体へと食い込んだ。  彼、という言葉が、美玖をさしているのだと、すぐにわかった。 「……美玖が、なにか」 「美玖も、背中を撃たれて倒れてたわ。それに、命も助かってる」  律はやっと、ゆあらが本当は何を聞きたいのか、理解した。 「家族を心配してたらしいけど。それはつまり、ここから出たいってことかしら? もしかしたら、逃亡を企てているのかも」 「……最初から、疑っておられたんですね」  無礼だとわかっていながらも、口にせずにはいられなかった。  ゆあらは、最初から美玖を、今回の事件の加害者だと疑っていた。  だからこそ、美玖を学習校舎に入学させたのだ。  出られないように。  逃げられないように。  そして、こちらが疑っていると感づかせないために。 「唯一の生存者だもの、最初に疑うわ」 「唯一って。敷島教授は、誘拐されたんだろ? そう聞いてるけど」 「死体が見つかったの」  三ツ谷が、口を開いて――閉じた。 「……死んだのか」 「ええ。DNA鑑定の結果も、間違いない。他の遺体と同じように顔をつぶされていたけれど、あれは敷島教授本人よ」  敷島勇人の死。  それは、神国にとって、大きな波紋を呼ぶことになるだろう。  一般市民から貴族最上位の地位まで登りつめた、実力のある男だった。  彼の功績により、クローン技術が目覚ましく発展したのは、いまだ記憶に新しい。  それにしても、と律は膝のうえの拳を握りしめた。  あの少年が、イデアのメンバー。  兄を探したいと望む目に嘘はないように思えたが、見かけで判断するほど、律は愚かではない。 「あ、あの」  書類を揃えていたゆあらが、顔をあげた。 「なに?」 「美玖くんのお兄さんは、見つかったんですか。その、死体とかで」 「もちろん」  簡素な返事に、感情は感じられない。  もはや、ゆあらの意識は別のところに向いているのだ。  律との話合いは終わった。  彼女の頭のなかでは、すでに次にすべきことを組み立てているのだろう。 「じゃあ、来てもらっておいて悪いけれど、あたしはこれで失礼するわ」 「おう、忙しいなぁお前も。身体壊すなよ」 「お互いにね。今ががんばりどきだもの、多少の無理はするわ」  じゃあね、と言ってゆあらは東屋から出て行った。  遠くなる彼女の背中を見つめていた律は、その姿が消えたころ、そっと息を吐きだした。  緊張していたらしい。  身体中の筋肉がゆるむのを感じて、ひとくちも口をつけることができなかった紅茶に、はじめて口をつける。  甘酸っぱい味が、口内から喉にすべりおち、内側からも柔らかな香りに包まれた。 「ま、そゆことだ。別にどうこうしろってわけじゃねぇだろ」 「そう、ですね」 「ゆあらのヤツも、結局なにが聞きたかったんだか」  一気に紅茶を飲み干して、三ツ谷が立ち上がった。ぼりぼりと頭を掻きながら、東屋の窓枠に肘をつく。 「普段は、あんなヤツじゃないんだけどなぁ」 「ゆあら様ですか?」 「そそ。呼び出しといて、聞くだけきいてポイみたいな。ずいぶん忙しいみたいだな。イデアの動きも活発みたいだし」  ここ数日、敷島邸の襲撃を皮切りに、市内のあちこちでイデアのテロが行われている。  つい昨日も東区にある大聖堂で爆破テロがあり、死傷者がでたばかりだ。 「どした?」 「いえ、美玖くんが心配です」 「お前は、シロだと思ってんだ?」 「確証がありません。……いえ、美玖本人に、加担したという自覚がないだけかもしれませんが。そもそも、敷島教授を裏切って、彼に得することなんて何も――」 「あのな、律」  こほん、と三ツ谷がこれ見よがしに咳払いをした。 「思想家っていうのは、損得で動くもんじゃねぇ。自分の理想を信じて、全部をぶつけてくる。だから、厄介なんだ。とくに、徒党を組まれるとな」 「厄介、ですか」 「ああ。理想や思想は、正義にすり替わるんだよ」 「正直、わたしにはわかりません。神王神下こそすべてです」 「お前は、神王神下に心酔してるもんなぁ」 「それにですよ! わたしは南区で暮らしてましたが、不自由なことはありませんでした。神王殿にあがってからもです」  いまのままで、じゅうぶん幸せなのに。  思想家を名乗るテロリストたちは、何を変えようとしてるのか。  気がつけば、両手を机に突っ張って、身体を乗りだしていた。  慌てて身体をひっこめて、熱くなった自分に恥じ入るようにして頭をさげる。 「……ゆあらもお前も、神下のことになると熱くなるなぁ」  苦笑交じりの言葉に、律は返す言葉がなかった。  姫巫女と一緒に扱われるなど恐れ多いので止めてください。そう言おうと思ったが、そういう問題ではないのだとわかっていたし、なにより言い過ぎたと反省していた。 「だがな、律。世の中、自由だけが権利じゃないんだぜ」 「なんですか、それ」 「知り合いの受け売り。ま、そゆことで、お前は医者だ。どんな考えをもってても、俺らのすることに変わりはねぇ。そろそろ戻るか」  だらだらと歩き出す三ツ谷のあとを、律は慌てて追った。  一瞬、茶器をこのままにしておいていいのか迷ったが、三ツ谷が放っておいて構わないというので、そのままにして東屋を出る。  もうここにくることはないだろう。  直感がそう訴えかけ、石畳を歩きながらじっくりと庭を観察した。  庭から出る際、門をくぐるのを躊躇ってしまうのは、仕方がない。  名残惜しげに繰り返し後ろを振り向いていると、苦笑を浮かべた三ツ谷に腕を掴まれた。  門の向こうには、見なれた簡素な景色が広がっている。  律はまるで、夢の世界から現実へと戻ってきたような錯覚を覚えた。
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