第二章

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第二章

 コウに強引に連れられて、夕暮れの中を散歩しながら。  美玖は、漠然と考えていた。  恋だ愛だのという恋愛ごとは、よくわからない。これまでに経験したこともなかったし、何より必要がないからだ。  結婚、というものがある。  それは、男女の間で婚姻の契約を結ぶことによって、夫婦と認められるというものだ。  夫婦になる男女は多くはないものの、一般市民には稀に夫婦の契りを交わすものがいるという。  愛は常にこの世にあふれ、恋人という関係になる輩は多いが、わざわざ夫婦になる必要もない。  むしろ、神王庁の許可を得なければならなく、手続きも面倒だ。  あえてそんな結婚という契約をする者の気がしれない。  正直、美玖はそう思っている。  そんな美玖の内心を知ってか知らずか、延々と二時間も結婚の素晴らしさについてコウが語ったのは、つい二日前のことだ。  ぼんやりとそんなことを考えていた美玖は、夕暮れの色濃い噴水公園までくると、その足を止めた。  点呼まで四十分、寮の施錠に至っては三十分足らずだというのに、まだ人影がちらほらと見えたからだ。  美玖の後ろからコウの長い影の先が近づいてきて、少し先で止まる。  隣を歩くはずのコウが、背後にいる。  心の距離だ、と思った。 「いっぱいだねぇ。あっちいこっか」  コウが、親指で別方向を指さした。  幅三メートルほど並木道が伸びており、両端に一定間隔に針葉樹が並んでいる。毎朝のランニングコースでもあり、美玖にとっては不思議な愛着が湧いていた。  頷いて、生温かい風に乗るように、ゆったりと歩みを進めた。  二人並ぶと、長身のコウの影が一際長く、地面を這う。その様子をぼんやりと見つめながら、ただ歩いた。 「ねぇ」  長い沈黙の末、コウの方から声をかけてきた。 「愛って素晴らしいよね」 「は?」 「ほんと、素晴らしいよ」  突然なにを言いだすのかと思ったが、振り向いた先にあったコウの表情がやけに沈んでいて、美玖はかける言葉を失った。  針葉樹の影が丁度コウを遮っていたので、見間違いかもしれない。  それでも胸をじわりと嫌なものが込み上げてきて、コウの顔を直視できずに視線を反らした。 「幼等部から、ずっと一緒でさ。よぉく知ってるんだけど。でも、なんか今は、知らない人みたい」 「アスカか」 「そう。他に好きな人が出来たからって、きっぱり振られちゃった」  あはは、と笑ってみせるコウの言葉に、思わず顔を見た。苦笑を浮かべてはいるが、絶望している風にはみえない。  ふっきれたはずもないだろうに、気丈に笑うのはなぜだろう。  コウは肩をすくめてみせて、言葉を続けた。 「もともと、叶うはずなかったんだけどね。ほら、アスカちゃんって巫女補佐志望だし、恋愛厳禁じゃん? だから、僕が好きって言っても、なぁなぁになって消えていくんだろうなぁって思ってた」  それが、予想に反してアスカの方から振ってきたのだ。回廊でしつこいくらい言いよっていたのは、そのためか。 「そんで、いつか学生時代を懐かしむときがきて、僕を真っ先に思い出してくれたら嬉しいなぁって思ってた。でも、はっきり迷惑だって言われちゃったよー」  そう言って、コウは美玖の肩に寄り添ってくる。  ふり払うこともせず、ただ歩き続けた。 「だから、ありがとう。あのとき、止めてくれて。アスカちゃんに、嫌われたくはないからさ」 「そんな想いをしてまで、アイというものを素晴らしいと思えるのか」  美玖は、足を止めた。 「アスカに好きな男ができたのも、『愛』のせいだろう?」  同じように立ち止まったコウの瞳が揺れており、言ったばかりの言葉を後悔した。  言い過ぎだ。そう思ったが、今更なかったことになどできはしない。 「愛は、素晴らしいよ」  コウが、繰り返した。まるで噛み締めるように、ゆっくりと、力強い言葉だった。 「アスカちゃんがね、笑うんだ。すごく優しく笑うようになった――愛の力だよ。それって、素晴らしいことだと思う」 「だが……他の男の力だろう。それでも、嬉しいのか」 「もちろん」  そう言って、コウは笑う。  少し寂しい笑顔で、笑うのだ。  泣いてもいいんだぞ、といいかけてやめた。この無邪気な少年は、皆が思っている以上にプライドが高いことを、知っているから。 「好きな人が幸せだと、嬉しいよ。僕は美玖も好きだから、美玖が幸せだともっと嬉しいなぁ」  ほら、誤魔化してきた。 「……俺は男だぞ」  美玖は苦笑した。  誤魔化されてやろう。  話を反らすのは、本心を知られるのを恐れているからだ。弱い部分を見せたがらないのは、いつものコウだった。  美玖自身も、深いところまで彼を知りたいと望まない。  浅く軽い付き合い――そういうものを、望んでいる。 「恋とは違うけど、愛に違いないじゃないか! 美玖だってお兄さんが好きなくせにー」  違う、と言いかけて、やめた。顎に手をおいて、ふむ、と考える。  言われてみれば、そうかもしれない。恋ではないが、楼杏に対する想いは愛だ。 「哲学か。難しいな」 「いや、そんな真面目に考えなくていいんだよ? でも、だったら僕なおさら切ないよね。アスカちゃんにはふられて、美玖にもふられてー」 「ふってないだろう」 「お兄さん一筋じゃないか。毎日毎日、お兄さんの話ばっかりするし」  え、と目を見張った美玖に、コウもまた軽く目をみはった。  驚いた表情をしている。 「もしかして、気づいてなかったの? うわー、無意識?」 「そんなに話してたか」 「話してたよ! 兄の意見だが、とか、兄がこうしていたから、とか」  確かに、美玖の考えや行動は楼杏に似ているだろう。兄を尊敬していたし、彼の言動にはとても納得できたから、敷島よりも楼杏の教えを継いだといっても過言ではない。  だが、それをいちいち「兄がどうのこうの」と付け足して説明していたとは。  改めて言われると、覚えもある。 「……恥ずかしいな」 「え、なんで? 僕はアスカちゃんの話ずっとしてても恥ずかしくないけど」 「兄離れできてないとか、思ってたんだろう」 「まぁ。今も思ってるけどね! 美玖ってお兄さんの話しするときだけ饒舌になるし」  まずい、顔が火照ってきた。  確かに、愛は素晴らしく偉大かもしれない。  そわそわと視線を彷徨わせているうちに、辺りに静寂が落ちた。  気まずい空気が流れる。  突然、コウがふふっと笑う。なにがおかしいのか、さらに声を張り上げて笑いだした。訝りながらその様子をみる美玖に、なんでもないと言って首をふった。 「なんか、うん。やっぱり僕は美玖のこと、好きだなぁって思ったよ。好きな人たちが幸せなのが、僕の幸せなんだなぁ」 「……何を言ってるんだ」 「ねぇねぇ、美玖のお兄さんってどんな人なの?」  これまた、露骨な話題変えに眉をひそめた。  コウが突然話題を変えるのはいつものことだが、自分の不利になりそうな話題を振られて嬉しいはずがない。  そう思った美玖だったが、あえて口には出さずに、さぁと言って正直な感想を続けた。 「充分話しているようだから、これ以上話たくない」 「たくさん聞いてるけど、どれも美玖越しのお兄さんっていうか。いまいち、お兄さんのイメージがわかないんだよね」 「なんだ、イメージって」 「美玖がいうには、容姿端麗で頭が良くて、気づかいができて、感性が優れてて、もう全てにおいて完璧な人らしいけど」 「その通りだ」 「抽象的っていうか。具体的に教えてよ。美玖のお兄さんだったら、僕だっていつか会うかもしれないわけだし、知っておきたいよ」  美玖は、考える。  楼杏を知りたいと言ってくれたのは嬉しいが、そうは言われてもどう説明すればいいのかわからないのだ。  同時に、あまり深入りしないでくれと願う己に気づいて、複雑な感情を強引に押し込んだ。  今は、楼杏の話だ。  兄はとにかく、凄い人だった。  なんでも知っていたし、美玖の心にするりと入りこんできて、優しく抱きしめてくれるのだ。 「じゃあさ、髪の色と長さは?」  考えあぐねていると、コウから話をふってきた。 「黒に決まってる。長さは、腰まであったな」 「長っ! じゃあ、思想は?」 「思想?」 「そう。今流行ってるじゃん、社会主義とか」  別に流行っているわけではない、と言いかけてやめた。  美玖は、兄の事を思いだしながら、ぽつぽつと口をひらく。 「兄は多分、民主主義だった、と思う」 「へぇ。珍しいね」 「はっきり聞いたわけじゃない。でも、言葉の端々から、そんな気がしていた」 「そっか。民主主義派だと、表だって言えないしね。この社会主義国家じゃ」  ああ、と頷いた。  頷きながら、美玖は胸の奥に、硬い石のようなものが落ちるのを感じた。 「じゃあ、えっとー。お兄さんの好きな食べ物は?」  こつん、と小さな石が、胸に落ちた気がした。  楼杏はいつも、庭で本を読んでいた。  そう、本を読んでいたのだ。 「美玖?」 「……知らない」  知るはずがなかった。  楼杏が食べ物を口にするところなど、この十年間、見たことがないのだから。 「ふーん。好きな色は?」 「たぶん、白、だと思う。いつも、白い服を着ていたから」 「パンツも? パンツが白だと興奮するよね!」 「……さぁ」 「趣味は? 部屋とか、綺麗な感じだった?」 「趣味、は、読書かな」  空気が突然薄くなったような、息苦しさを覚える。  楼杏はいつも、衣類に乱れひとつなかった。恐らく、おおざっぱな性格ではないのだろう。  だからきっと、部屋が散らかっているということもないはずだ。  兄の部屋には、行ったことがない。  離れのどこかだろうと見当をつけてはいたが、具体的な場所を知らない。  行こうとも思わなかった。  楼安は常に庭におり、いつだって優しく微笑んでくれたから。 「そういえば、お兄さんって今は何してんの……美玖?」  ふらつく身体を、コウが支えた。  髪を掻きあげながら首をふる美玖に、コウがどうしたんだと声をかけるが、美玖にはきこえてさえいなかった。 ――楼杏は、いつだって庭にいた  彼から美玖に会いにきたことは、一度もない。いつだって美玖から、会いに行ったのだ。  敷島と喧嘩して、腹立たしいとき。  家庭教師に考えを否定されて、悲しかったとき。  これからの人生について、迷ったとき。  いつだって美玖が辛いとき、兄は傍にいてくれた。 「違う」 「……美玖?」  そうじゃなかった。  辛いときだけ、美玖が会いに行っていたのだ。  助けを求めるように、この気持ちをわかってほしくて、優しい言葉をかけてほしくて、それだけのために会いに行っていた。  その挙句に、敷島邸が襲撃にあったとき。  美玖は、兄を置いて真っ先に逃げたのだ。  肺の中にある空気が鉛に変わっていくような、重く苦しい感覚が、せり上がってくる。  兄が好きだ。  それは、兄弟だからじゃない。  助け合って生きてきたからでもない。  頼ったときに手をかしてくれる、都合のいい存在だったから、ではないのか。 「俺は」 「美玖、しっかりしてよ」 「俺は、兄さんを何も知らない」  いつも自分のことばかり話ていた。楼杏の何も知ろうとしなかった。  十年も、共にいたのに。  敷島の養子となってからは多忙であったことは否めない。  毎日毎日研究の知識を詰め込まれ、生活を制限され、自由な時間などほとんど無かった。  それでも、楼杏の心に歩み寄る時間くらい、十分あったはずだ。  だが、美玖はそれを疎かにした。  きっと、楼杏はそのことに気づいていたはずだ。  それでも、美玖が頼れば優しく迎え、受け入れた。  本当に、優しい人だったのだ。 「泣くなよー」 「泣いてない。泣いたとしてもお前の前では泣きたくない」 「なんで! 胸かしてあげるのにぃ」  ぶー、と唇を尖らせるコウの姿に、重い胸の奥が少しだけ、暖かくなる。  苦しいけれど、ここで泣くわけにはいかなかった。今泣いてしまえば、それはきっと、自分を憐れんでしまうということだから。  たまらなく、楼杏に会いたかった。  これまでも、会いたくてたまらなかったけれど。  話したいことが出来た。  謝りたいことが増えた。  もっと、もっと、楼杏のことが知りたくなった。 「愛は、偉大だな」  つぶやくと、コウは嬉しそうに笑った。 「だろだろ? やっと美玖もわかったんだねー」 「まぁな」  例え楼杏が美玖を好きでなくとも、会いたい。罵声を浴びせられようが、もう一度、生きている彼と、話をしたかった。  一際強い、風が吹いた。  それを合図のように、どちらからともなく、歩き出す。  そういえば、と美玖は腕に抱えたままになっていた夕刊を思いだした。アスカから渡され、コウが取りあげてしまっていたものだ。  返してもらったのはいいが、まだ目を通していなかった。
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