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名もなき庭園。そう呼ばれる庭園は、たった一人の腕のよい庭師がその人生をかけて剪定する。
今の時代、庭師などという職を選ぶものは少ないが、それでもこの名もなき庭園の庭師になりたいと渇望する者は絶えない。不自由ない暮らしと、絶対的な名誉。そして、神である神王に近しい存在になれるためである。
美しく彩られた四季折々の木々は、この庭園でのみ季節のしばりを持たない。それらの木々、そして噴水や東屋の間を、細い石畳が伸びている。
それらを見回し、ゆあらは歩く速度を緩めた。今日は姫巫女装束ではなく、司令官を示す赤紫色の軍服をまとっている。
「……ここじゃないのね」
あの方はよく東屋で茶を取られているのだが、今日は姿がみえない。
ゆあらは、止めかけた足を動かし、神王殿内宮へと向かった。
人々が運命とやらに未来を絶ち切られて、五百年以上が過ぎようとしている。世代を失った人々は急速にその数を減らし、今ではこの副都市「未来都市」と首都を残して、荒野と化した。
もっとも、現在の首都と呼べる場所は官僚たちが住まうだけの別邸と化しており、本来の意味とはほど遠いのだが。
四羽の鳥の姿が描かれた、内宮と呼ばれる建物の門をくぐれば、ゆあらの身体を冷たい空気が包む。地上にあるもっとも清き場所と言われるここは、いつ来ても静けさがこの身を包む。
名もなき庭園の中央にぽつんと存在する神王殿内宮は、その言葉のごとき神の住まう場所とされており、姫巫女をはじめ神官や一般巫女などの、限られた人間でなければこの中に入ることが許されない。
ゆあらは、その限られた一人だった。
螺旋階段を登り切り、突き当たりの細い通路を過ぎれば、この神王殿の主である神王の自室がある。細かな装飾が施された両開きのドアを、力強く叩いた。
静まり返った廊下にノックの音が十分に響き渡ったあと、「どうぞ」という男の声が返る。
「失礼します」
断りを入れて足を踏み入れれば、予感していた通り、ふわりと水の香りが飛び込んでくる。何度もここへ通っているゆあらにとっては慣れたものだったが、はじめて来たときは何の香りがわからずに、もどかしい思いをしたものだ。
水の匂いなど普段は意識さえしない。だが、この部屋に入れば、なぜか水の香りに満たされる。
水なんて、どこにもないのに。
「いらっしゃい」
「神下、お身体は大丈夫なんですか?」
細い体躯の男が、窓辺の椅子に腰をかけてゆあらをみている。黒く美しかったという長髪は白く変わり、かつて生気に満ち溢れていた姿は、とてつもなく弱弱しい。
不死と噂される彼が命の砂時計を流し始め、数十年。
その時間は、刻々と迫っている。
「大丈夫か、と言われると、大丈夫ではないだろうな。だが、気分は悪くない」
「横になられては?」
「横になったところで、定めには逆らえんさ。さ、見せてくれ」
細い腕を伸ばされ、抱えていた書類を差し出した。
「イデアの襲撃にあったのは、敷島勇人の屋敷です」
ぱらりとめくる彼に対して、ゆあらは事務的に説明をする。
「今朝方、敷島邸より防犯システムが作動。すぐさま確認を取りましたところ、連絡が取れず、神下直下の警備兵を動かしました」
「お前の独断か」
「はい。勝手を致しました」
「いや、構わない」
男は「続けてくれ」とほほ笑んだ。
「警備兵が向かったところ、敷島邸の襲撃が判明。屋敷内は、かなり悲惨な状態だったようで、出仕のものから研究員まですべてが皆殺し状態であったと」
「研究員? 自宅にか」
「はい。公休を利用して、敷島邸では親睦会という名で研究報告会が開かれていたそうです。例の、研究の」
敷島勇人は、クローン研究の第一人者でもある。
人々が未来を奪われた――すなわち、命を宿せなくなってから、クローン研究は国の重要研究の最高峰となった。未来法に定められた絶対的な機密事項でもあり、外部にその内容が漏れることは許されない。
「今回の襲撃は、研究に関することだと思うか」
「わかりかねます。ですが、その」
言い淀むゆあらに、男の深く静かな視線が、つと向けられる。
ゆあらは一度息を吐いて、そっと言葉をつむいだ。
「研究資料がいくつか紛失しておりました。それに、身元を確認できた研究員は少なく――その、調べにはもう少々時間を要します」
発見された遺体は、顔や身体がつぶされ、見るも無残な状態だったのだ。
わかった。男はそう言って、書面に視線を戻した。一枚、上の紙をめくったところで、手を止める。
「この少年は、生きているのか」
「はい。唯一と言ってもいい生存者です。敷島教授の養子で、ちょうど十年前に施設より引き取られたクローンでして、こちらがその際の契約書です」
「養子か」
ふむ、と頷いた男は、残りの書面にさっと目を通すと、ゆあらに返した。
「民主主義派に動きがあれば、すぐに知らせてくれ。……やはり、人々は自由を求めるのだな」
頭を下げかけたゆあらは、男の言葉に動きを止めた。
「私は、間違っていると思うか」
「いいえ!」
男は驚いた顔をした。ゆあら自身、自らの声の大きさに驚いたが、それを気にしている余裕はない。波打つ感情を抑えきれず、思わず身体を乗りだした。
「思いません。どの世にも、それに相応しい国政というものがございます。今の神国で民主主義政策を取るのは、未来をつぶしかねません。あの者たちは、現状を理解していないのです。貴方様がいなければ、世代は生まれず、未来は永遠に失われる。なのに」
「ありがとう、ゆあら」
はっ、と我に返ったゆあらは、恥じいったように俯いた。
「申し訳ありません、つい、その」
「構わない。確かに、そうだ。今のこの国は、そうでなければならない。かつて民主主義国家であったころとは、違うのだから」
かつて人々は、地球の自然を破壊し、その限りを尽くしてきたという。その手痛いしっぺ返しか、子を産むすべを奪われ、それでも人は生き続ける。
「この世に、命が宿らなくなって久しい。我らは、神をも恐れぬ行為に手を染め、それでも未来を繋いでいる」
「神は、あなたです」
「……そうだな。私が本当に不死であったなら、神になれたかもしれない」
男が、窓へ手を伸ばした。空にかざすように、そっと掲げてみせる。
「この身体に流れるものがなんなのか、私にもわからない。かつては研究材料としてこの身を差し出したこともあったが――」
「神下御自らですか」
「ああ。だが、結局は何もわからなかった。私はこうして、ここにいることでしか役にはたてない」
多くの「神に見放された生き物」が死に耐え、今や現存する生命は限られている。突然の変化に順応できた恐ろしく頭のいい生き物や、まったく新しい生き物へと姿を変えた彼らのように、人もまた、クローンという道を選んだのだ。
内宮を出たゆあらは、神王の部屋があるだろう場所を振り仰いだ。
これまでも時折ゆあらに意見を求めることはあったが、あのように自らを話すのは、とても珍しいことだ。
神王も、かつてはただの人だったという。
この世で唯一といってもいい、人から産まれた人でもある。
――私が本当に不死であったなら
ゆあらは、ぎゅっと目をつぶった。
どうすることもできない無力な自分が、許せなかった。
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