第一章

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第一章

 神国は、神王殿領を中心に円状へ広がる都市国家である。東西南北の四方に分かれた四区と中央の神王領、そして遥か彼方の地方に存在するという首都の二つから成り立っていた。  首都は神王が選んだ国の重役やそれに付随する役職の閣僚たちが集う別邸であり、一般市民には神王領内同様、無縁の場所でもあった。  少なくとも、一般市民にとっての神国は「未来都市」と呼ばれる副都市が行動範囲のすべてなのだ。なぜならば、未来都市周辺は砂塵敷き詰められた荒野が広がっており、それらには神に愛された生き物たちがはびこっている。かつて地上を独占していた人間は今やその数を減らし、反比例するように数を増やし進化し続けた肉食動物に天下を奪われてしまったのだ。  すなわち現在、人間が生きるすべは、神国のなかにしか存在しない。  神に見放された人間は、神が守りし神国でしかその生を全うすることが叶わないのだ。  美玖は、屋敷の庭へ下りた。  未来都市の北部、神王殿からほど近い貴族の屋敷群のひとつに、敷島邸がある。兄である楼杏はいつも、小さな人工林にある樫の木の木漏れ日に揺られ、本を読んでいた。 「兄さん、一緒にいいですか?」 「構わないよ。こっちにおいで」  すぐ隣に腰を下ろすと、楼杏は読んでいた本を閉めた。 「また、父さんとケンカしたのか」 「……ケンカってほどじゃないんですけど」  父である敷島勇人とは、意見が合わないわけではなかった。ただお互いに強情なところがあり、素直になれずに仲たがいする。わずかな言葉の違いが、対立を生むのだ。 「どうして父さんは、俺を引き取ったんでしょうか。兄さんがいるのに。それに、俺はこんなだし」  そう言って、両の掌をみた。不意に手が伸びてきて、美玖の手のひらに重なる。おどろいて兄をみれば、柔和な笑みを浮かべて美玖をみていた。 「どんなことで、ケンカしたの?」 「神国についてです。最近また民主主義派の動きが、活発になってきたでしょう。そのことが新聞に載ってて、話題になったんです。父さんは、神下だけが優遇される国であるべきだと――絶対王政のような統治国家であるべきだと、言うんです」 「父さんは、神王神下を尊敬されているから」 「でも俺は、そうは思いません。それを言ったら怒られて。ですが、俺だって神下を尊敬していますし、この国の神であるべきだと思います。なのに、お前の言葉は神下に対する裏切りだって」  この神国における神王は、絶対的な存在だ。けれど、神王は絶対君主制ではなく社会主義を国の方針とし、未来法に基づいて国政を行っている。 「美玖。お前はしっかり自分の意見をもっているね」 「え?」 「この国で、そういった者は貴重だよ。皆が与えられるものをそのまま受け止め、不変のなかで生きている。人々の意見に惑わされることなく、自らの足で立ち、歩いていくことは、とても大切で重要なことなんだよ。だからこそ、父さんもお前を引き取ったんじゃないかな」  ぎゅう、と手のひらを掴んで、楼杏は笑う。 「けれど、他者の意見をきくことも大切だよ。皆が同じ意見なら、対立は生まれない。彼らには彼らの信念や思いがある。そしてそれを、彼らは正しいと信じている」 「正しくないのに、ですか」 「なにが正しくて正しくないのかは、わからない。人は生きている限り、権利をもつ。未来法は、それを隠してしまっているけれど――それはとても、大切なことなんだ」 「俺たちは、自由を保障されています。色々決まりごとはありますが。しかし、それはいいことなのではないですか」 「自由だけが、権利ではないよ。民主主義という言葉は、深くて重い。お前もいずれ、わかるだろう」  兄は、とても美しい人だった。そしてとても博識だった。 「あの、兄さん。俺」  言葉を途切れさせた。  楼杏がいない。僅かに視線を反らしている間に、忽然と姿が消えてしまった。 「兄さん?」  辺りを見回しながら立ち上がる。穏やかな日差しに照らされた庭が、変わらずにある。  だが、兄の姿だけがない。  ふと、頭の中が揺れた。目の前の景色と、過去に見た残像が重なる。  これは、夢だ。  そう認識した瞬間、遠くで、悲鳴があがった。女の声だ。楼杏ではない。また、別の悲鳴があがる。  屋敷で何かが起こっているのだ。  屋敷には、まだ父がいる。兄もいる。  けれど。  美玖は、逃げるために駆け出した。  そうだ。  たった一人で、逃げようとして――。  *
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