第一章

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 清々しいとは言い難い、朝の空気を吸い込んだ。陽が昇って数分だというのに、辺りはすでに汗ばむほどに気温があがっている。  学習校舎に在席するクローンには月々、制服や必要な文具品などが支給される。その他に、微々たるものだがお小遣い程度の賃金が支給され、それらは好きに使用していいことになっていた。  好きに、と言っても、使用できる場所は教員寮にある購買くらいだが、品ぞろえは多種多様だ。  僅かばかりの金銭を持って寮をでた美玖は、玄関の段差を降りたところで静かに息を吐きだした。自分でも驚くくらい、恙無い日々が過ぎている。  学習校舎では、生徒であるクローン同士の暗黙の了解がある。  必要以上に他者に接触もせず、必要以下にあしらうこともしない、というものだ。  ここでは、それが普通。  友人など必要ない。  お互いがライバルであり、そして他人でもある。  自らを高めるための場所であり、間違えても他者を蹴落とす場ではないのだ。  美玖もまた、ここにいるからには、かつてそうだったように自らを磨く努力をしている。  バイオ研究に関しては抜きんでている美玖だが、その他――特に武術面に関しては比較的腕力の劣る女生徒よりも、劣っている始末だった。  白い薄手のシャツに、グレーの通気性のいいズボン。  そんな簡素ないでたちで歩き出す美玖がすることは、ジョギングだ。  筋力はないが、体力はある。身体を動かさねば、落ち着かなかった。今すぐにでも、兄を探しに駆けだしたいほどだ。  先に教員寮の購買で朝刊を買い、それを広げながら足早に歩き出す。  ここへきてまだ半月、対人関係や学術面では溶けこめている美玖だったが、閉鎖的な空間には未だに慣れない。  完全に外の世界と遮断された学習校舎では、外の情報もこうして自ら買い求めなければ得ることができないのだ。  知ることを禁止されていないのが唯一の救いだが、学生の大半は国内情勢など興味がないようで、ただひたすらに勉強に勤しむ姿が目につく。  卒業すれば貴族位が与えられるが、卒業は至難であり、受験生でもある高等部の彼らは、自らのことで手いっぱいなのだ。  そう、皆忙しいはずなのだ。本来は。 「……お前は毎日暇だな」  当然のごとく、ジョキングコースの途中で、大きく伸びをして立っていたコウにそう告げると、いつもの笑顔で駆けよってきた。  間違えても、待ち合わせているわけではない。 「おっはよー。いやぁ、今日も暑いね。夏も終わりなのに、ぜんっぜん涼しくならないし。その癖に、陽が昇るのは遅くなるから、ヤだよねぇ」 「今日もついてくるのか」 「うん、もちろん!」  コウは、初日以来ずっとこうして付きまとってくる。  鬱陶しいと思わないでもないが、されるまま好きにさせていた。  彼が自分にひっついてくる理由などわからないし、美玖自身にそんな価値もない。  だが、彼がいれば周りから話かけられて対応に困った場合など、代わりのように臨機応変に助け舟を出してくれるので、とても助かっていた。  最近はむしろ、コウが近くにいることに馴染んできた気がする。 「あ、新聞みせてー」 「まだ俺が読んでない」 「じゃあ一緒に見ようよ。こうやって広げながら走れば二人で見れるじゃん」 「……走りにくい」  仕方なく、庭園の噴水まで軽く走ったあと、近くのベンチで新聞を広げた。  噴水のある「公園」と呼ばれるこの場所は、十メートル四方の小さな広場だった。  どの年齢層の生徒たちにも人気があり、昼休みや授業終了後はつねに人で溢れている。  だがさすがにこの時間では、誰の姿もなかった。 「あー、しんどー」  コウがだらりとベンチに座りこむ。 「ほとんど走ってないだろう。なんでお前はそんなに体力ないんだ」 「僕は頭がいいから、いいの」 「体術の試験もあるだろ、卒業に」 「僕はバイオ研究の道を進むから、あんまり関係ないよ。貴族になれなくても、別にいいし。アスカちゃんは、巫女秘書目指して奮闘中だけどねぇ」  聞いてもいないアスカの情報を寄こし、コウはため息をついた。  最近多忙を極めるアスカに構ってもらえずしょげているのだとわかったが、あえて美玖は何も言わない。 「美玖って体力だけはあるよねぇ。体術の授業は駄目駄目なのに」 「……ほっといてくれ。大体、俺よりもお前の方が酷いだろう」  コウは、美玖にとって唯一と言ってもいい、体術の授業で勝てる相手だ。しかも、不戦勝。コウは運送神経どうこう以前に体力がない。  隣に腰を下ろし、朝刊を開いた。  赤字の見出しで、「イデア、爆破予告」という文字がみえて、眉をひそめる。先ほども見えた文字だが、改めて見るとその物騒さに気持ち悪さを覚えた。 「なんか物騒だねぇ」  覗きこんできたコウに頷いて、小さな文字の羅列に目を通す。  その内容によると、またもや「イデア」と名乗る反社会主義組織によって、犯行声明があったようだ。  民主主義を唱えて、神王の退位を求めて反乱を起こしている彼らは、ずっと水面下の存在であり、実態のはっきりしないあやふやな敵だった。  それがここ数年で、形あるものに変化した。もともとあったものが、姿を現したといった方が正しいかもしれない。 「やっぱり、あれかなぁ」 「なにが」 「王位交代の件」  物騒な響きを伴う奇妙なその言葉に、ぎょっとした。「王位」が「交代」するなどありえないからだ。  とっさに辺りを見回してひと気がないことを確認したあと、美玖は口を開いて――閉じた。  なんと聞けばよいのだろう。  どう聞いたとしても、その言葉は神王に対する不敬のように思えた。  そんな美玖の様子見ていたコウは、軽く肩をすくめて呆れながらに口を開いた。 「聞いたことない? 何年か前から、神王神下の王位交代の噂が流れてるんだよねぇ。寿命らしいよ」 「ばかな、ありえない。神下は不老不死だろう」  神王は、不老不死である。それはありふれた空気の存在の如く、当たり前のことだ。  クローン寿命の平均が四十歳前後のこの世で、数百年以上もの月日を老いもせずに生きているという神王は、神と等しき存在である。  その身には多くの命を宿し、不思議な清き清浄なる力によって、迷える魂を安寧へと導くのだという。  神に見放された世界で、唯一、人を導く「神に等しきお方」――それが、神王神下だ。  いわば、死からもっとも遠い存在でもあるのだ。  その神王が、死ぬ。それは、神国の存在を覆しかねない大事件ではないか。 「大体、そんな噂、聞いたことがない」 「まぁ、具体性はないし。美玖は北区にいたんでしょ? 神王殿では、けっこう有名なんだけどなぁ」 「ただの噂だろう」  神王が死ぬ。  そんなありえないことを信じろと言う方に、無理がある。 「でもさ、民主主義派のやつらは、神下の存在を否定してる。動きが活発化してきたのも、退位の噂が流れだしたころだし、関係なくないんじゃない?」 「……」 「あくまで噂だけどね。ほら、少し前に敷島邸が襲撃された事件あったじゃん?」  ドキリ、と心音が高鳴った。  思わず声をあげそうになったのを堪えて、平然を装いながら頷く。 「あれもさ、なんだかんだで全面対決の予兆って感じだよねー。僕みたいなバイオ研究の道を希望する未来ある若者としては、正直、敷島教授って好きになれなかったんだよね。僕でさえ嫌いなんだから、敵さんなんて、目の敵だったんじゃないの」 「俺も好きじゃない。敷島は滑稽だ」 「こっ……なんで? っていうか、すごい発言だね。貴族に対して、それはまずいんじゃないの」 「敷島は、名誉にしがみ付いている。何かあれば武力行使だ。権力で他者を屈服させていた」 「……美玖も言うねぇ」  呆れと感心をふくんだ声音に、美玖は顔を反らした。話し過ぎたかもしれない。 「でも、僕的にはそこじゃなくてさ。その辺はまぁ、正直わからなくないよ。敷島教授は一般クローンからのし上がった人だし、事実、それだけの知識がある。僕が言いたいのはそこじゃなくて。えっと、なんて言えばいいかなぁ。熱狂的なまでの神王敬愛思想でありながら、神下の唱える社会主義に反対なところとか? ちょっと、危ない感じ」 「……そうだな。たしかに、矛盾している」  神王を神のように崇めているが、その言葉を認めてはいない。  敷島は、神王こそこの世のすべてであるべきだと言っていた。つまるところの、絶対王政に準ずる政治を望んでいたのだ。  神王を愛するあまりの言動かと思っていたが、敬愛する者の言葉を裏切るような思想を持つことは、どうだろう。  いや、むしろそれが神下のためになると思っていたのかもしれない。あの男の神王へ対する愛は、自分さえ美化していた節がある。
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