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「バイオ研究では優秀な男だが、理想論を語るところがあったからな」
「え、なに、知り合い? あ。貴族だったもんね、関わることもあったんだ?」
「……まぁ」
つい口を出た言葉を誤魔化すように、ぱらりと新聞をめくった。
その瞬間。見覚えのある顔を紙面左下の枠にみつけ、さっと顔がこわばった。
イデアの幹部らしい顔写真が、横一列に三枚、並んでいた。その隣には小さな活字で「主犯判明か!?」と書かれている。
まだ確定ではないのだろう。こんな端に小さく乗るくらいの写真だが、朝刊に載るという時点で警戒度は高い。
「あれぇ、主犯判明したんだ? この人たちで決定だろうね、新聞に載ってるんじゃ」
「……辰巳(たつみ)」
「あ、ほんと。辰巳芳樹かぁ。苗字があるってことは、貴族なんだろうけど、聞いたことないなぁ」
美玖は、右手で口元を覆った。
そうだ。
――止めを、刺しておけ
屋敷が襲撃された際、背後から聴こえた感情のない男の声はこの男の、辰巳芳樹ものだ。
貴族のなかにも、地位というモノが存在する。
それらはすべて「貴族」と総称して呼ばれるが、役職や功績に応じて、つまり、いかに神王の傍に寄れるかによって上下関係が決まる。
辰巳は卒業組で貴族の地位を得たが、バイオ研究の道へ進んだあと、過失を引き起こして失脚。
貴族の地位を失い、一般研究員として神王殿で仕えていたところを敷島が拾い、秘書として傍に置いていた――はず、だった。
辰巳が主犯格だとすれば、敷島の屋敷を襲撃するなど、容易いだろう。秘書として屋敷を出入りしていたのだから。
敷島は、裏切られたのか。
いつからだろう。
一体いつから、襲撃は計画されていたのだろう。
美玖は冷たくなった指先で、つつ、と辰巳の写真を撫でた。
頬の細い、キツネのような顔だ。
ずいぶんと悪人面で写っているが、美玖の印象では「スマート」という表現につきる男である。
にこやかな笑みを絶やさず、何事も悟らせない、そして、とてつもなく頭のいい、そんな男だった。
そう、頭のいい男なのだ。
だからこそ、美玖を殺せと命じた言葉には、意味がある。
敷島の屋敷を襲撃したことも、彼にとってはなにか理由があるはずだった。
その理由とやらを美玖は知らない。
知りたくもない。
肝心なのは、楼杏が行方不明だということだ。
楼杏は民主主義派だった節がある。
辰巳からすれば、楼杏ほどの者を引き入れて損はないだろう。叡知に長けた兄は、味方になれば心強く、敵になればいい人質にもなるのだから。
そう、そうだ。
きっと――辰巳のもとに楼杏はいる。
具体的な証拠があるわけではないが、確信に似た想いが胸を占めた。
もう、これまでのようにあてがないわけではなくなったのだ。
不思議と、希望にも似た道が開けたような気がした。
「でもさ、なんで民主主義なんてわざわざいうんだろうねぇ。僕たちは自由を保障されてるじゃん。それをどうするも、個人の努力しだいじゃないか」
「自由だけが、権利ではないさ」
いつだったか、楼杏が言っていた言葉をそのまま返した。
ふーん。そう言って、コウは気のない返事を返すと、そういえば、と言葉を続けた。
「美玖は、進路どうするの? 体力あるし、軍部希望? でも君、実践は全然使えないしねぇ。僕と一緒に、バイオ研究に進もうよ」
「興味ない」
「うそ! あんなに詳しいのに?」
「……なんで詳しいってわかるんだ」
「この前の試験、全部埋めてたじゃん。出戻りなのにあんなにすらすら書けるなんて、勉強してた証拠だよ。さすが編入生って感じ」
出戻りいうな。
軽く顔を引きつらせた美玖は、諦めに似たため息をついた。
「まだ二年あるだろう」
「あ、決めてないんだ? まぁ、急ぐことでもないか。でも僕、バイオ研究でやりたいことあるんだ。だから、美玖も一緒だと嬉しいなぁ」
美玖は、朝刊の見出しにひと通り目を通すと、立ち上がった。
朝のうちに、もう少し走っておきたい。
あらかじめ決めておいたコースを走り込み、寮に戻って汗を流したあとは、いつも通りの毎日がはじまった。
食堂で、科学の結晶ともいえる朝食を取ったあと、各々の教室へ向かい、教師によって授業を受ける。一日に四つの科目を、午前午後二つずつこなしたあとは寮へ戻り、それぞれ自学に励む。
同じことの、繰り返しだ。
安全でいて不変な毎日は、とてもゆったりしていて、むしろ居心地がいいかもしれない。
辰巳芳樹は、今どこにいるのだろう。
寮の二階、決して広くはない自分の部屋へ戻ってきた美玖は、今日一日そればかり考えていた自分に呆れながら、身体を静かに覆う熱が冷めやらぬことに気づいていた。
数少ない家具である勉強机に肘をついて、足を組む。目前には窓があり、夕暮れの空が見えた。
何度目だろうため息をつく。
我ながら、学園生活に順応していると思う。そう見せかけているのだから、周りからもそう見えていないと困るのだが、大丈夫だろうという確信はあった。
なるべく早く、ここを出よう。
イデアの動向をさぐっていけば、辰巳に繋がるだろう。ひいては、楼杏へ近づくことになる、はずだ。
糸口は、見つかった。
だからこそ、一刻も早く実行に移さねばなららないような気がして、気持ちばかりが急いでいる気がする。
駄目だ。
じっくりと計画をたててからでないと、律が言っていたように、無駄な死を増やすだけになってしまう。
小卓に置いた水差しから、コップに水を注いだ――そのとき。
ふと、ドアの向こう側、廊下から慌ただしく騒ぐ声が聞こえてきた。
激しく「覚えのある声」と「声」が、なにやら口論をはじめたようだ。
聞こえないふりをして、美玖は寝台に身を投げた。
我ながら生活感のない部屋だ、そう思いながら、そっと目を閉じた。
静まり返った自室に不釣り合いな、廊下の騒ぎ声。否応なく耳に飛び込んでくる会話。
「あー。なに、喧嘩? 珍しいな、今回はコウかよ。つか、アスカ絡みかよ。いい加減、諦めろっつーの。つか、アスカのどこがいいんだ」
「ねぇ、ミクくん呼んできた方がいいんじゃない? ほら、二人と仲良いし、なんとかしてくれるんじゃないかな」
やめてくれ。
そう思った、わずか数秒後。
ドアを叩く音がして、辟易しながら廊下へ出た。
見覚えはあるが、名前が思い出せない少女――恐らくクラスメートの誰かが、立っていた。
「……なんだ」
「美玖くん。止めてあげて。コウくんとアスカちゃん、喧嘩してるの」
そう。
喧嘩をしているのは、コウとアスカだ。
美玖にとっては、学習校舎内で関わりの深い人物一位と二位である。
「なぜ俺が」
言外に「お前がしろよ」と仄めかすと、名も思い出せないような少女の客は、美玖がそれ以上口を開く前に、きっぱりと「嫌よ」と言いきった。
嫌なものを押しつけるのか、という仁徳を説くつもりはない。
自分は関わりたくないが、うるさいと勉強に集中できない。だから、他者に頼む。別におかしなことではなかった。
だが、美玖とて拒否権はある。
このまま放置しても構わないだろう。
そう思ったが、野次馬の視線が自分に向いていることに気づいて、部屋に戻ろうとした足を止めた。
喧嘩を止める義理はない。義理はないが、のちのちここを卒業して研究員として働きだしたとき――対人面で苦労することになるだろう。
敷島の子どもとして暮らしてきた美玖には、それが嫌というほどわかる。
わかってしまう自分が嫌だった。もっと嫌なのは、美玖自身学習校舎を卒業するつもりなど毛頭ないのに、将来の安泰を考えている自分自身だ。
自分の考えにほとほと呆れ、ため息がでた。
それをどう取ったのか、相手の少女はわずかに怯んだようだった。
「……わかった。声はかけてみる」
呟くようにいうと、少女の返事を聞く前に廊下へ顔をのぞかせた。
数人の生徒が見守るなかで、コウがアスカに言いよっている。
どうやら今回はいつにも増してしつこく付きまとっているようで、冷ややかともいえるアスカの表情が険しくなっていた。
「おい、他の生徒に迷惑だろう。騒ぐなら、外でやった方がいいんじゃないか」
仕方なく声をかけると、むぅと頬を膨らませたコウがふり返る。つられる様にアスカもふり返り、しんと廊下に静寂が落ちた。
打って変わった静けさに、居心地の悪さを覚えた野次馬たちが、それぞれの寮室へと戻っていった。
「アスカ、こんなところで何をしてるんだ。確か、寮室は二階だろう?」
「……そうですけど。あなたに、用があったの」
アスカが、大事そうに手に持っていた新聞を差し出した。
「今日の夕刊。必要かと思って、持ってきたんです」
「俺に? なぜ」
「見ればわかります。用は済みました、失礼します」
つん、と顔を反らすアスカは、いつも通りの姿だ。見なれた無表情で、コウの隣をふり返りもせずに通り過ぎていった。
彼女の姿が見えなくなったころ、受け取った夕刊を、顔をしかめながら広げた。
紙面に目を落とした瞬間、
「なんで、美玖ばっかり」
降ってきた、低く沈んだコウの声。
美玖は、弾かれたように顔をあげた。
「コウ?」
「ごめん、なんでもない」
いつもの笑顔ではない、苦笑を滲ませた顔で笑うと、ひょいとアスカが渡してくれた夕刊を取りあげた。手を伸ばす美玖の手を逆に引っ張り、コウはその肩に腕を回す。
「ちょっと散歩いこうよ。点呼までには、時間があるし」
「それは、構わないが。アスカとなにがあったんだ、あんなに声をはりあげて」
「アスカちゃんが冷たいから、つい。いや、ほんと反省してる! でも傷心なんだよー。癒して?」
「わかったから、散歩くらい付き合う。離れてくれ」
「はーい」
屈託のない笑みは、いつものコウだ。
美玖は安堵を覚えながら、先に歩き出したコウのあとを、夕陽に照らされながら歩き出した。
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