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壱
明治十三年七月四日――
宇都宮の街に蝉時雨が降り注いでいた。
まだ文明開化の波は宇都宮にそれほど届いておらず、街ゆく人たちの姿は着物ばかり。いや、一人だけスタンドカラーのシャツの上から袴と着物をまとう少年がいた。この時代としては最先端の書生姿ながら、田舎ではまだ奇異に見られる格好をした散切り頭の十七、八歳くらいの青年は速足で街中を歩いていた。
彼は風呂敷包みと、やたら長く細い何かを入れた袋を手にして、時折、懐から筆書きの地図を取り出しては道と見比べて歩き、やがて一軒の屋敷の門前に立った。
「ここ……だよな」
青年は懐から帳面を取り出し、そこに書かれている文字と門にかけられていた扁額の文字を見比べた。扁額には『主静塾』と書かれており、門柱にかけられた表札には達筆な字で『県』と書かれていた。
青年は開かれた門の中庭をのぞき込み、そしてひとつ頷き、門を潜ってその奥の屋敷の玄関に向かった。
「ごめんください」
青年が玄関の戸を叩いて声を上げると、しばらくして女中と思しき女性が現れた。すでに彼が来ることを知らされていたのか、女中は主人に確認も取らず、青年を屋敷に招き入れた。
彼が通されたのは、静謐な庭に面した和室だった。
彼は座卓の下座に敷かれた座布団には座らずに避けて、畳の上に正座して屋敷の主人が訪れるのを待つことにした。ほどなくして、背筋がピンとしている初老の男性が現れた。彼は青年を見て少し驚いたような顔をしたが、すぐに孫を見るようなにこやかな笑みを浮かべた。
「よく来た、宗晴君だね。しばらく見ないうちに立派になったね。お父さんは元気かな?」
「はい、相変わらず囲碁と釣りばかりをして暮しています。県閣下もお元気そうでなによりです」
「もうただの隠居ジジイだ。閣下は止めてくれ。それにこう見えても、もう寄る年波には勝てんよ。身体のあちこちにガタがきているさ」
そう言って県は苦笑した。
彼の名は県勇記。以前は信輯と名乗り、かつての宇都宮藩家老であり、従六位に叙された元司法省大審院付の官僚だった。そして青年の父親は、県と共に戊辰戦争の宇都宮城の戦いを共にし、新撰組副長である土方歳三に唯一手傷を負わせた宇都宮藩最後の武術指南役である佐山宗吾という人物だった。
「やはり、父上は来られないかね」
残念そうな県に、宗晴は申し訳なさそうに頭を軽く下げた。
「父が次に刀を取る時は土方と決着を付ける時だけだと申しまして、こちらを県さんにお渡しするように、と――」
宗晴は風呂敷包みの中から手紙を出し、県の前に差し出した。
県は受け取った手紙を開くと、そこには見覚えのある懐かしい達筆な文字で文が綴られていた。
文には謝意と共に、もう老身故に土方歳三以外に対して太刀を振るう余力がないこと。そして、県の要望には、三男の宗晴が充分に応える力を持っていることが綴られていた。
「父上は、まだ土方と決着が付けられなかったことを根に持っておられるのだね」
「はい。たまに遊びにくる叔父の横山宗輔と戦の話をするたびに、あの時、血気にはやって手柄を奪おうとした板垣の若造が現れなければ、討ち取っていたと申しております故……」
宗晴は仕方ない父だと言うように苦笑しながら話した。
すでに戊辰戦争は終わり、土方歳三は十二年も前に戦死していた。それを知ってもなお宗晴の父親が土方との決着を付けたがる理由は、最後の武士としての矜持なのだろう。
「それで、父上は宗晴君がこの仕事を担えると言っているが……」
「はい。父と叔父には鍛えられていますし、栃木神明宮の宮司様にも認めていただいております。そして、父からこれを預かってきました」
そう言って宗晴は細長い袋を縛る紐を解き、中から一振の太刀を取りだした。
「百目鬼丸か……」
物ノ怪の『百目鬼』の銘を持つこの太刀は、あらゆる方向の敵を見据えて隙を見せず、さらに目に見えぬ物ノ怪までも断ち切るという謂れを持つものだった。
県は宗晴から太刀を受け取ると、鞘から刀を引き抜いた。
本来は二尺七寸(約八二センチ)ある長刀に分類されそうな太刀だったが、鋒から約三寸(約九センチ)ほどのところで砕けた歪な刀身。それは土方歳三との戦いの際、土方が撃った拳銃弾によって砕かれた物だった。
「あの時のままにしてあるのだね。父上は、これで戦えと?」
「幕府残党との戦いであれば、あの時と同じ状態で戦うのが筋と申されました。私自身、すでに百目鬼丸を扱い、一通りの癖は掴んでおります」
「なるほど……。頼もしい言葉だ」
県はにこやかに笑って頷き、刀身を鞘に戻して宗晴に太刀を返した。
その時、襖の向こうを静かに歩き近づく音が聞こえた。
「失礼いたします。旦那様。県令の鍋島様がお連れの方と共にお越しになられました」
「お通ししてくれ」
県の言葉に宗晴は音を立てずに部屋の隅に控えるように移動した。
「失礼いたします!」
庭に面した廊下から案内された県令の鍋島は、座卓に座る県を見て廊下に正座して頭を下げた。その隣には体格がよく厳しい顔つきの男が同じように正座し、頭を下げていた。
「おや、そちらは?」
「はっ、初めてお目にかかります。わしは山形県令の三島通庸と申します!」
「噂の土木県令殿か……」
県に土木県令と呼ばれた三島は、照れたようななんとも形容しがたい表情を見せた。
「まずは、お入りくだされ」
二人の県令は畏った調子で頭を上げた。そこでようやく部屋の隅に控えた宗晴を目にし、今まで気配を感じていなかったために驚いた表情を見せた。
「君は……県さんの御子息?」
「いや、私の子ではない。栃木町の佐山宗吾殿の三男の宗晴君だ」
「佐山……宗晴君。あの神明宮の神前試合で負けなしの?」
県令の鍋島に名前を知られていたことに、笑みを浮かべ、宗晴は頭を下げながら挨拶した。
「はい。佐山宗吾が末子、宗晴にございます」
「彼の父上の宗吾殿には、三島君も浅からぬ関係があるかな」
「は? そうなのですか?」
「君の軍学の師である伊地知殿が宇都宮城を奪還する際に協力した宇都宮藩士が、宗吾殿だ」
自分の師の伊地知の名前を出されて、三島はハッとしたような面持ちで宗晴に顔を向けた。
「では、土方を斬った侍の御子息か⁉︎」
明治初期、まだ新撰組の伝記は作られておらず、新撰組の土方歳三が、無名に等しい宇都宮藩の侍に斬られたのではなく流れ弾で負傷したというすげ替えは行われていなかった。
「はい」
「それは是非、お父上にお会いしたかった」
「栃木町に来れば、まだお会いできるぞ」
感慨深そうに何度も頷いていた三島を、鍋島はからかうように笑いながら勧めた。
「次に栃木町に行った時は、是非、お会いしたい!」
「家に戻りましたら、三島閣下がそう仰っていたと、父に伝えさせていただきます」
談笑に一区切りついたと見た県は、さてと話を切り替えた。
「御依頼の那須野が原の件だが、私はこの宗晴君を推薦する」
県の言葉に三島は驚き、鍋島はやや眉を潜めた。
当然だろう。彼らから見たら、宗晴は子どもにしか思えない。警官ですら手を焼く幕府残党に、こんな少年が太刀打ち出来るとは到底思えなかった。例え神前試合で負けなしと言っても所詮は剣道の試合。実戦とは訳が違う。
「宗吾殿に断られたということもあるが、彼が推してきた人物が今まで不出来だった試しがない。あの宇都宮戦争の時の弱卒ですら、彼の下では一騎当千の猛者となった。どうだろう? ここはひとつ、私の顔を立てるつもりで信じてはもらえまいか?」
県に頭を下げられて鍋島は慌てた。
「お顔をお上げください。ぜひ、宗晴君に任せたいと思います故、どうか頭をお上げください!」
さすがに子どもに任せるということに鍋島は抵抗があったが、県に頭を下げられては断ることもできない。可哀想だが、仮に宗晴が幕府残党に斬られても仕方あるまいと考えるしかなかった。
「では、彼に佩刀許可証を渡していただけますかな?」
「承知致しました。筆をお貸しいただけますか?」
県が立って別室にある筆と硯を取りに出て行くと、鍋島は宗晴に向き直った。
「君の刀は、その太刀かな?」
「はい。百目鬼丸と申します」
宗晴に差し出された太刀を鍋島は受け取り、県同様にその刃を検めるべく鞘から抜いた。そしてその鋒を見た鍋島と三島は声を漏らした。
「折れているではないか」
「はい。父の命によりそのままに、と」
落ち着いた様子の宗晴と対照的に、鍋島と三島はなんとも言い難い表情を浮かべて顔を見合わせた。
「宗晴君。これでいいのかね? なんなら、警察隊に掛け合って、刀を借りてもいいのだよ」
「いえ。私はこの太刀で居合も出来ます故に、このままで問題はございません」
「しかし……」
さすがに手入れがしてあるとは言えどもこのままもしものことがあって倒れられては、鍋島も寝覚めが悪い。そんな鍋島の気持ちを察したか、三島が助け船を出した。
「では、拳銃の携帯許可証も加えてはどうか? 幸い、今、わしも銃を持っておる故、これをお貸しいたそう」
三島が差し出したのは、アメリカから輸入したコルトSAA回転式弾倉拳銃だった。別名ピースメーカーと呼ばれるものだ。
「そんな、いただけません!」
「構わんよ。わしの趣味で集めているだけの代物だ。君の活躍に期待しているのだから、受け取ってくれたまえ」
「では、太刀の他にその銃も加えよう」
いきなり拳銃を持ち出されておろおろする宗晴をよそに、鍋島と三島はこれなら大丈夫だろうというように頷き合った。そこに筆箱を持って現れた県は、すぐに状況を察して苦笑した。
「いただいておきなさい。君のお父上も、右手に拳銃、左手に百目鬼丸という格好で土方と渡り合ったのだからね」
「父が……拳銃を?」
そう説明されて、宗晴は合理主義者の宗晴の父親なら、拳銃を片手に太刀を振るうだろうと納得してしまった。なお土方歳三の戦闘スタイルも、宇都宮戦争前後から刀と銃を持つというものに変化していたという。実際、接近戦という状況で、とっさの一撃を放てる拳銃は中々便利なものだったらしく、戊辰戦争では似たような装備を持つ者が数多くいたらしい。
「それでは、御言葉に甘えて、頂戴いたします」
佩刀と拳銃の携帯許可証に記名して印を押した鍋島は、宗晴にそれを手渡した。
「それでは、栃木県令として依頼する。那須野が原にて開拓の邪魔をする旧幕府勢力や匪賊たちの討伐をよろしく頼む!」
宗晴は許可証を恭しく受け取って懐にしまい、そして畳に両手をついて頭を下げた。
「拝命承りました。非才ながらもこの佐山宗晴、全力で匪賊たちを誅滅して参ります!」
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