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――遠くに行きたかったんです。
ここよりも、もっと先……。手が届かないくらい、もっと先に。
でも、駄目でした。
行きたかったのに。足が、止まってしまった。そんなつもりなかったのに。
本当は、もっと遠くに行くつもりだったのに……。
――それはとりとめのない、漠然とした独白だった。
その抽象的な言葉の羅列が何を意味するのか、私にははっきりとは分からなかった。ただその声色から、深い悲しみと後悔だけは明確に感じられた。
高野さんの顔をそっと覗き込む。
その瞳は、ひどく濁って見えた。
「……高野さん。ここが、最果てですよ」
気付くと、私は口を開いていた。
何でもいいから今、言葉を掛けなければと思った。
「地球は丸いけど、ここがその、最果てなんです。この先には進めません。行き止まりです。だから、ここで少し休んで、引き返していいんです。遠い遠い地というのはなんだか幸せそうで憧れますが、行ってみたら案外、楽しいことなんてないものですよ」
高野さんが顔を上げる。私は何も言わずにただ笑顔を返した。
するとふとドアが開き、外から雨音と賑やかしい笑い声が入ってきた。
常連の川田さんだ。後ろには堺さんもいる。
二人は部屋の空気など気にすることもなく、どかどかと私たちのところへやって来た。
「はあ、濡れちゃったわ。こんにちは」
「こんにちはぁ。雨、すごいわよ。こんな日に病院の予約なんか入れるんじゃなかったわ。あ、これお願いね。内容いつもと変わらないから」
二人の処方せんを受け取る。時計を見ると、午前中のピークの時間になろうとしていた。私は高野さんに小さく会釈をすると、急いでカウンターへと戻った。
大雨はここ数日に渡り降り続いていたが、社会機能がストップする程ではなかった。川田さんたちの対応をしているとぽつぽつと他の患者もやってきて、私は手が離せなくなった。
慌ただしい投薬の合間に、ふと待合室を見やる。高野さんは今は外の景色を見ておらず、じっと薬局を出入りする人々を眺めていた。
気さくな常連さんが高野さんに話しかける。その押しの強さに負けて、高野さんはおずおずと相槌を打っていた。私はその光景をちらちらと見ながら、嬉しい気持ちになった。
気付くと、二時間が過ぎていた。
ようやく最後の投薬を終え、ふうと息を吐く。薬の空箱で散らかった調剤室を片付け、椅子に座り伸びをする。そしてふと待合室を覗き、私は初めて気付いた。
窓際の席。
高野さんの姿がない。
さっきまで、そこにいたはずなのに。部屋のどこにも人影はない。部屋の隅にも、トイレにも。私は慌てて薬局内を歩き回った。
……薬が来るまで待つと、言っていたのに。
思わず白衣を脱ぎ、私は薬局の外へと飛び出していた。
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