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天気予報によると、三日程続いているこの大雨は夕方頃に止むらしい。
雨音と、待合室に流れるクラシックとの和音に耳を傾けつつ、私はパソコンで処方せんの入力をしていた。ふと、脇に置いていた彼の保険証と質問表を手に取って眺めた。
高野悠平、三十五歳。
思ったりよりも若かったようだ。勤務先は、東京に本社がある大手印刷会社。住所は東京都練馬区。よく見ると、病院も都内だった。
――随分と、遠くから来たようだ。
そっと視線を上げ、窓際の席で外を眺めている高野さんを見つめた。
旅行中だろうか。病院には行ったけれど、薬をもらう時間がなくて、出先で……という可能性はゼロではない。
もしそうだとしたら、悪いことをしてしまったかもしれない。
〝……申し訳ありません。こちらのお薬、ただ今在庫がない状態でして。取り寄せでしたらご用意できますが、よろしいでしょうか?〟
先程そう言うと、彼は視線を落とし、じゃあ大丈夫ですと言って出て行こうとした。
薬がすぐに手に入らない場合、別の薬局に行くという人はままいる。他へ行けば在庫があるかもしれないからだ。この後用事がある人や、忙しい出先であれば尚のこと。いつもだったら私も止めはしない。
だけれど。
外はまだ強い雨が降っている。前方もよく見えない。道行く人の心を折るような、そんなどしゃ降りだ。
彼をこのまま行かせてはならない――何故かそう思い、私は気付くと開きかけたドアを必死に押さえていた。
〝……あの! 今注文すれば、夕方には入ってきますから。……ここでお薬、もらっていきませんか?〟
旅行中か何かなら、半日も足止めを食わせてしまうのは申し訳ない。この雨では観光も何もないだろうが、勝手に罪悪感を感じながら私はまた入力作業に戻った。
しかし、頭の中で声がするのだ。
〝人生に迷っている人は、目を見れば分かる。瞳の奥に靄がかかっているんだ。そんな目じゃ、ろくに前も見えやしないよ――〟
「……素敵な薬局、ですね」
思いがけず、声を掛けられた。
顔を上げる。高野さんは窓の向こうを見つめたままだった。しかし、私は彼の凍えていた心がほんの少しだけ溶けたような気がして嬉しくなった。
「そうなんですよ。こんな外観で見晴らしもいいから、まるで薬局じゃないみたいでしょう。薬局長が、ここを〝ひと休みできる場所〟にしたいって言っていて、こんな感じになったんです。ソファーも増やしたんですよ。居心地がいいから、みんなお薬をもらってもなかなか帰りません。海も見えますしね」
高野さんはああ、と答えた。
「海岸からも見えました。ここが」
……海岸まで行っていたのか。
心の中で呟くと、私は給茶機から緑茶を注ぎ、高野さんのところへ持っていった。
高野さんはおずおずとそれを受け取る。暖房を強めにしたからか、顔色は少し戻っていた。
「……温かい」
「何もないですが、ゆっくりしていってくださいね。お疲れでしょう。長旅だったんじゃないですか?」
そう言うと、高野さんは少しばかり俯き、はい、と呟いた。
その表情がみるみる暗くなる。私はどきりとして彼の顔を見つめた。
高野さんは下を向いたまま、ゆっくりと話し出した。
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