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海岸から南にまっすぐ歩いて二十分。急勾配な坂の上、木々に埋もれるようにして建っている〝ハテノ調剤薬局〟を見つけたのは、ちょうど三年前のことだった。
はじめ見た時は誰がこんな場所に来るんだろうと思った。病人にはきつい坂。近くに医療機関があるわけでもない。薬を求めている患者にとって、あまりに立地が悪すぎると思ったのだ。
だけれどあの日、私は吸い込まれるようにこの薬局へ向かった。
何故なのかは分からない。ただあの日、海岸から見つけたこの薬局の灯りが最後の希望のように見えたのだ。きっとこの薬局には、追い詰められている人間に手を差し伸べているような、そんな空気があるのだろう。
薬局らしからぬ、古びた洋館風の建物。その小さなベイウィンドウの向こうに、今日も恐る恐る近づいてくる人影が見える。
それは私と同じ、救いを求めてやってきた人間なのかもしれない。
「あの……」
真鍮のドアノブをかちりと鳴らし、一人の男性が入ってきた。
深い皺。白髪混じりの髪から見るに、四十代だろうか。髪の先、薄手のコートの袖口から絶え間なく雨水が落ちていく。私はカウンターからタオルを持って彼を出迎えた。
「こんにちは。すごい雨ですね」
彼の体は震えていた。
唇は青ざめ、疲れきった表情をしている。長いこと雨に打たれたのかもしれない。その手に傘を持っていないことに私は驚いたが、言及することもなく彼の体を拭こうとした。
しかし彼は私の手を止め、おもむろに鞄を開けた。
「ありがとうございます。でも、大丈夫なので……。……あの、この薬、ありますでしょうか」
濡れてしおれた処方せんを渡される。
それを開いて、中を確かめた。一瞬顔をしかめそうになったが、それは心の中だけに留めた。
「……申し訳ありません。この薬は……」
そこには、ある制吐薬の名前が記されていた。
吐き気を止める薬だ。服用のタイミングは今日ではない。化学療法を、行う日。
それは抗がん剤治療のための薬だった。
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