夢のショートケーキ

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夢のショートケーキ

「それ、本当にひとりで食う気か?」  午後十時のテーブルに乗っていたのは、ホールのケーキだった。たっぷりの生クリームにイチゴがトッピングされた、実にオーソドックスなタイプのショートケーキである。ちなみに六号。スマホより大きい。ちょっと調べたら直径十八センチあるらしい。  目の前の男は嬉しそうにしている。 「ホールケーキを丸ごと食べるのが子どもの頃からの夢だったんだよねえ」  それから奴はこちらを向き、最高の笑顔で言った。 「もちろん、(はく)さんが食べたいなら分けるよ」 「いらねえよ」  そもそも珀は甘いものが苦手である。中でも生クリームは最も苦手だ。甘いくせに味がない変な食べものだと思っている。それを喜んで食べる奴の気が知れない。  しかし、「ホールケーキを丸ごと食べるのが子どもの頃からの夢だった」はわからなくもない。似たような経験なら自分にもある。だから、まあ、そんなには、あからさまにわかるほどには、嫌な顔をしないようにしようとは思っていたが。  篤人(あつと)は図体が大きいくせに甘いものが好きで、菓子メーカーに勤めている年下の恋人だ。ついさっき、妙に思い詰めた顔で冷蔵庫に向かったと思ったら、ケーキ屋の箱を出してきた。女の子のキャラクターが描かれたあれだ。 『ごめん、今日はちょっと見ないふりしてて』  そう言って箱を開いたら、ホールのショートケーキが出てきたというわけである。  今日は篤人の誕生日でもなければ、クリスマスでも記念日でもない。ただの平日だ。そんななんでもない日に彼がこんなことをするとは、ちょっぴり心配でもあった。  何かあったのか。職場で上司に叱責されたとか。篤人は営業だから、客先でトラブルでもあったのかもしれない。この男は仕事の話はあまりしない。まして愚痴など零さない。いつも激務の珀を気遣ってくれるばかりで、珀もそれは悪いと思っていた。  珀は席を立った。 「コーヒー淹れる」 「ありがとう」  キッチンに向かう後ろで、篤人がケーキを口に運ぶ。彼はしばらく黙々と食べていたが、不意に動きを止めた。  悲しそうにケーキを見つめている。 「……なんか……、あんまり入らないな」 「そりゃあ、この時間帯だし、ケーキだし、当たり前だろ」  そもそも篤人は夕食をとった後だ。いくら甘いもの好きだからといってそこからホールケーキなんぞ入るものか。というか六号は大きすぎるだろう。  珀はマグカップをふたつ並べた。コーヒーを注ぐ。ブラックで、いつもより少し濃くした。  篤人がため息をつく。それはそれは寂しそうに。 「子どもの頃の夢は、夢のままにしておく方がいいんだな……」 「しみじみするなよ」  篤人のこういうのんびりしてぼんやりしたところは、ちょっとかわいい。ケーキを前にして嬉しそうな顔から、食べきれないとわかってがっかりするまでの表情の豊かさが。  珀は篤人に手を差し出した。 「それ、寄越せよ。やっぱり俺も食いたい」 「え、ほんと? 甘いもの苦手なのに」 「苦手だけど、それはちょっと食いたいの」  珀は篤人のスプーンを奪った。そうして口に入れたケーキは、甘くて崩れやすく、ふわふわして、溶けて、何もかも曖昧にしてしまうようだった。 「ひと口ならいける」  珀が言うと、篤人は苦笑する。 「ひと口だけ?」 「あとはお前が食えよ。自分で買ったんだから」 「ああ、珀さんなら絶対そう言うと思ってた」  当然だ。珀は優しくはない。篤人がしてくれるような心配りなんてしないしできない。 「お前なんか仕事でミスでもした?」  前置きもなしに、いきなり尋ねる。  篤人がふと動きを止める。 「ああ、まあ、そんな感じ」 「あんまり落ち込むなよ。こういうの、面倒くさいし」 「わかってる」  優しくしたいけれど、できない。  珀はケーキのイチゴを手で摘んだ。それを篤人に向かって突き出す。 「ほら。食えよ」 「俺、ケーキのイチゴは最後に取っておく派」 「最悪」  篤人はイチゴを口に入れ、珀の指までぺろりと舐めた。 終わり
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