ナマヌルイアイ

2/3
前へ
/7ページ
次へ
 珀さん女の人の多いところだと嫌がるだろうなと思って――と、篤人は言った。  なぜそれがわかったのだろう。話した覚えはない。しかし珀の女嫌いは話した覚えのない職場の同僚たちにも知られているので、滲み出る何かがあるのかもしれない。  翌日、やはり遅くまで残業して家に帰ると、篤人が鍋をかき回していた。 「お帰り。シチューあたたまってるよ」 「放っておいていいのに。わざわざあたためなくても」 「珀さんは放っておいたら食べないだろ。ほら、座って」 「面倒くさい」  が、珀はおとなしく席についた。  じゃがいもと玉ねぎ、にんじん、鶏肉を煮込んだだけの、ごくごくシンプルなシチューだ。ルーも市販のもの。これを「普通の」シチューと呼び慣わしているのは、以前に篤人がホワイトソースから作ろうとしたことがあるためだ。たまには丁寧に作ってみようと篤人が言い、そんな手間のかかったものは食べたくない、ごく普通のシチューでいいと珀が言い返して、この時も小競り合いになった。最終的には篤人が折れて、以来「普通の」シチューが食卓に上がっている。  珀はシチューを食べた。案外腹が減っていたのか、一杯では足らず二杯めをよそいに立った。 「俺がやるよ。貸して」  篤人が手を差し出したが、珀は器を渡さなかった。 「いいよ」 「俺がよそった方がきっと美味しいよ。ね? それ貸して」 「いいって。しつこい」  こう言えば篤人も退く。珀はシチューを器に注ぎ、食卓に戻った。その途中で、言い訳のように言った。 「誰がよそっても同じだよ。作り方だって、誰でも美味くできるようになってるんだろ」 「そうかなあ。結構変わると思うけど」  二杯めのシチューも特に味は変わらない。若干冷めているというくらいだ。 「今度の土日はゆっくりできそう?」  篤人が訊いた。 「うん、まあ」 「家で映画でも観る? ピザでも取って」 「いいんじゃない?」  そのくらいの方が気楽でいい。気張ったデートとか手の込んだ料理なんて息が詰まる。  ただ、映画の内容は問題だ。 「何観るの?」 「アクションは? この間配信になった、スケールの大きいやつ」 「やだ」 「じゃあ、ラブストーリー?」 「無理」 「ミュージカル?」 「なんでだよ」  珀はため息をついた。 「なんでもいいよ。篤人が観たいやつ観て。俺たぶん寝ちゃうから」 「珀さんと一緒に楽しみたいんだけどなあ。まあ、仕方ないか」  篤人のこういうところが好きだ。無礼な身勝手を許してくれるところが。  珀はあくびを噛み殺した。 「眠い」 「片づけはやっておくから、風呂入って」  そして珀は湯船に浸かる。瞼を伏せて考える。  篤人はなぜ急に料理教室などと言い出したのか。しかも一緒にいこうだなんて。  篤人は料理初心者でもなければ下手でもない。するとあれは、珀に料理を覚えさせるための策略か? ついに一方的な家事負担に耐えられなくなった? だとしたらそう言えばいいのに、随分と回りくどいことをするものである。  家事が負担ならばしなければいい。珀は多少部屋が汚れていても気にしないし、食事もずっと外食やコンビニでも構わない。なんなら食べなくてもいい。篤人がしてくれることはありがたいが、しないというならそれはそれでいいのに。  ――珀さん見てると心配になるんだよ。  何が?  ――女の人の多いところだと嫌がるだろうなと思って。  確かに。だが、だからといってリタイアおじさんに囲まれるのも嫌だ。経験上そのくらいのおじさんは「何歳だ」から始まり、彼女はいないのか、結婚しないのかと訊いてくる。篤人と一緒にいって、これと付き合ってますよ、などと言ったらドン引きすること請け合いである。  男も女も面倒くさい。  珀は女が苦手である。特に年上の女が苦手だ。一度女性上司の下に配属されたことがあるが、毎日がストレスで胃に穴が開きかけた。彼女は上司としては大変に評判のいい人だったにも関わらずである。  女が苦手な理由はわかっている。母親のせいだ。  父親は仕事が忙しいと不在がち、母親は専業主婦で内にこもりがちとくれば、間に挟まれた子どもが苦労するのは必至である。特に珀の母親は、息子を猫かわいがりするかと思えば口も利かないなど、溺愛と無視の間を極端に揺れ動いた。一昨日はべたべたと抱きしめてきて、昨日はあっちへ行けと怒鳴られた。果たして今日はどちらなのかと、幼い珀はいつも緊張していた。  無視が最もひどい時は、母親は出かけたまま帰ってこなかった。学校から帰ってきた珀は母親を待ったが、午後六時を回って空腹に耐えきれず食パンを食べた。八時を過ぎても帰ってこなかったので、泣いているうちにいつしか眠ってしまった。  翌朝父方の祖父母がやってきた。祖母は珀を見るなり言った。 『こんな汚れた服も着替えさせないなんて、何を考えているの』  母親のことを言っているのだ、というのは、直感的にわかった。それから、自分の着ている服が汚れていると初めて気がついた。何日それを着ていたのか覚えていない。服は毎日着替えるものだとは知らなかった。本当に知らなかった。幼い頃からその習慣がなく、なんの疑いもなく毎日同じものを着ていたから。  祖父が言った。 『元はといえば晋也(しんや)が悪いんだ。珀はかわいそうだが、俺たちには何も言えない』  その日の遅くに母親が帰ってきた。上機嫌と怒りの交錯した、複雑な様子だった。謝罪も言い訳もなし。珀の存在など目に入らないかのようだった。  ずっと後になってから珀はこの頃の家庭環境を分析してみた。祖父の言葉から推測するに、父親には外に別の女がいたに違いない。不在がちだったのはそのせいだ。母親は裏切られたことで頭がいっぱいになり、息子の世話をする余力がなかったのだろう。帰ってこなかった日は確か父親も出張だった。母親は父親が本当に出張なのか、不倫旅行ではないのかと出張先に確かめにいったのだ。  この状態は長く続いた。置いていかれることが何度もあり、その度に祖父母が来た。どうやら父親が連絡していたらしい。その状態で離婚しない両親がわからなかった。  珀が小学校を卒業する辺りから、父親と母親はどうやらいわゆる再構築に向かったようだ。お互いにぎこちないながらも気を遣っていた。家の雰囲気はましにはなったが、珀には相変わらず居心地が悪かった。そして居心地が悪そうにしていると、母親が怒った。  一家団欒の和を乱すとは何ごとだ、というわけだ。自分たちの行いは棚に上げて、珀に非を見出したようである。そういう時はまた無視されて、負い目があるのか父親も何も言わなかった。  ばかげた話だと思う。実にくだらない。しかし、母親に置いていかれるという経験を普通の子どもはしないものらしく、まして汚れた服で何日も過ごしていたとか、恥ずべきことのようだった。珀は少年の頃の話は誰にもしなかった。こんな話をもし聞かされたとしたら相手も困るだろう。それこそドン引きすること請け合いである。人はみな自分と似た環境の相手を求めるものだ。普通の人間にとって珀の家庭環境は奇妙だろうし、そんな育ちの人間とは関わりたくないのが本音だろう。  珀だって同じだ。母親が常に――まあ、常にではないにしても、おおむね優しくて話を聞いてくれる家庭など、想像もつかない。そんな家に育った人間の甘ったるい言葉を聞くと、正直虫唾が走る。  だが、そうなると珀が篤人と付き合っていることの説明がつかない。彼は明らかに普通の、両親からの愛情を疑うことのない環境で育っている。しかも自分は彼の素直さや善良さに惹かれているらしい。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

45人が本棚に入れています
本棚に追加