ナマヌルイコイ

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 それから篤人には会わなかった。  本人の言った通り引越ししたらしい。ふたつ隣の部屋の住人は一度見かけた。あのかわいい感じの青年は、電話しながら廊下を歩いてきた。至極楽しそうにはしゃいでいたから、「ほかに好きな人ができた」の相手と話していたのだろう。落ち込んだ様子はまるでなかった。恋人がいなくなって不便している感じでもなかった。あれでは篤人も浮かばれないと珀は思った。  ――大好きだったんだけどな……。  篤人の悲しい声が耳に蘇った。イライラした。  彼の持ってきた菓子は、いつまでもキッチンの端に残っていた。甘いものも辛いものも特に嫌いではないが、なんとなく食べられずにいたのである。あの男がいなくなってしまうと、セックスしたことも、そもそもそこにいたということさえ幻のように思えた。残っている菓子だけがあの男の実在を表しているかのようだった。  馬鹿馬鹿しい話だ。それでも珀は篤人がいまどうしているのかと時々考えたし、会いたいと思ったりもした。夢を見たりもした。たった一度のことだし、そこまでハマったつもりはなかったが、たぶんその後も誰とも何もなかったせいだろう。  プロジェクトがひとつ終わってもまたすぐ次のが始まり、相変わらず忙しかった。転職すべきなのだろう。そう思ってはいても、なかなかきっかけが掴めなかった。生来の面倒くさがりが災いしているようだ。  そうして三か月ほど経ったある日、帰宅すると部屋の前で誰かが待っていた。 「お帰りなさい、板野さん」  そいつは照れくさそうに言った。 「家の前で帰りを待ってるとかキモいですよね。だけど俺、よく考えてみたら板野さんの連絡先知らなくて」 「訊かなかっただろ」 「連絡先訊かなきゃってことも思いつかないくらい落ち込んでて」 「セックスはできるのに?」 「すみません」  連絡先を訊かなかったのは珀も同じだ。けれど篤人はそれを言わない。珀を責めるようなことは何ひとつ言わず、目を細めてこちらを見つめていた。まるで愛しいものを見るかのように。  珀は両手で篤人の頬を包んだ。どのくらいの時間外にいたのか、彼の肌はひどく冷たかった。 「三ヶ月も落ち込んでたの?」  恨みがましく言うと、篤人は珀の手を外側から握った。 「元彼と同じマンションには正直来づらくて。板野さんも引越ししません?」 「しません」 「じゃあ、板野さんが俺のうちに来て」 「どこだよ」  篤人は笑った。  珀は彼の唇にキスをした。  篤人はエコバッグを持っていた。普通のスーパーで普通に使われているあれだ。シンプルなチェック柄。中身は食材だった。 「板野さんと一緒に食べようと思って。食べるの面倒だけど食べたくないわけではないんですよね? いま作りますからシャワーでも浴びていてください」 「料理するんだ」 「元彼と暮らしてた間も俺が料理担当でした。そこそこ作れますよ」  珀はシャワーを浴びず、ソファーに座って篤人を眺めていた。彼はエコバッグから食材を取り出し、楽しそうに料理を始める。 「あんたがなんでフラれたかわかった。都合がよ過ぎるんだ。だんだんお母さんみたいに思えてきて、ほかの刺激が欲しくなる」 「お母さんって。ひどいな」  篤人は苦笑いする。その顔を見るのは二度めで、三ヶ月ぶりだ。 「でも、わかります。たぶんそうなんだろうな。俺、下に弟と妹がいて、なんかすぐ世話したくなっちゃうんですよね」 「やめた方がいいんじゃない? 彼氏は適当に泳がせておきなよ」 「泳がせておくって、容疑者じゃないんだから」  篤人はバスルームを指差した。 「まだ少しかかるから、容疑者さんはおとなしくシャワーを浴びてきてください」  そうして付き合いが始まり、数週間が経過した。いつも篤人が珀の家に来る。珀は篤人の家には行かなかった。頑なではあったが、面倒だったし意地もあったので譲れない。なんの意地かというと、つまりこれだ。  ある日珀が扉を開けると、弱りきった顔の篤人がいた。 「いま、そこで元彼と顔合わせちゃって。なんでここにいるんだ、ストーカーしてるのかってすごい剣幕で怒られたから、この部屋の人と付き合ってるって言ったんだけど信じてくれなかった。殺されるかと思ったよ」 「うろうろしてたらそのうち通報されるかもな」 「他人事みたいに言わないでよ。ねえ、珀さん本当に引越さない? そろそろ賃貸の更新時期だったりしない?」  いつからか篤人の敬語も外れ、呼び方も苗字から名前に変わっていた。琥珀の珀をイメージできるようになったらしい。 「更新するよ。物件探すのも面倒くさいし」 「探さなくていいよ。俺のうちに来ればいいじゃない」 「付き合って数週間の相手と同棲するほど馬鹿じゃない」 「ひどいなあ」  珀は篤人の作ったクリームシチューを食べる。事前の連絡で何が食べたいかと訊かれ、シチューと答えたらリクエスト通りに作ってくれた。鶏肉と玉ねぎとニンジンとジャガイモ。市販のルー。普通のシチューだ。  引越すのは面倒くさい。しかし警察を呼ばれでもしたら、それはそれで困る。  次に篤人が来た日、珀は彼の手を引いてふたつ隣の部屋のチャイムを押した。  篤人は困惑している一方で面白がってもいて、だが面白がるのもまた不謹慎だと思っているような、複雑な様子だった。  元彼が扉を開けた。口もぽかんと大きく開けていた。 「俺はふたつ隣の部屋の人間だけど、本当にこの人と付き合ってるから。この人あんたのストーカーしにきてるわけじゃないよ」  珀は言った。 「あ……、そう、ですか……」  元彼は呆然としていた。  部屋に戻るなり篤人は笑い転げた。 「珀さん、ありがとう。なんだかいろいろスカッとしたよ」  自分では大人気ないことをしてしまったとちょっぴり反省もしていたのだが、そう嬉しそうにされるとどうにも変な気分だった。 「面倒くさいだろ」  珀はごまかした。 「本当だね」  篤人は珀を抱く。身体中に触れて、舐めて、充分に前戯してから入ってくる。珀は喉を反らし、その喉に吸いつかれるに任せる。 「好きだ」  耳元に囁かれる。  珀はどうしようか迷った。この男とはもののはずみで知り合い、寝て、付き合うことになったが、好きかどうかと問われるとよくわからない。彼の体温は心地よい。あたたかい夕飯もありがたい。不快なことは何ひとつなくて、ともすれば頷きそうになってしまう。  ――引越さない?  ――いいよ。  珀は篤人の首に腕を回した。そうしてすがりついて、答えを避けたけれど。 「好きだよ……」  ――慰めを求めただけなのに?  しかし口づけされてしまった。深く、情熱的に、逃がさないとでもいうように。生ぬるいだけだった行為が、いまは熱い。目眩がするくらいに熱くて、酔いそうになる。 「篤人」  呼ぶと彼は目を合わせて、嬉しそうに微笑んだ。
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