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ナマヌルイアイ
残業から帰ってみると、食事が用意されていた。
白飯と味噌汁は食器だけだったものの、焼き魚と煮物、茹で卵は盛りつけられ、上からラップがかけられていた。
珀はテーブルを見下ろして、小さく息をつく。
あの男、毎日毎日よくも飽きないものだ。
その男、篤人は風呂らしい。シャワーの音が聞こえていた。
珀は飯を茶碗によそい、味噌汁は面倒だったからやめて、食卓についた。冷めた魚なんぞ食えたものではないからこれも諦めて、茹で卵と煮物に箸をつけた。
そのうちに水音が止んだ。バスタオルを巻いた篤人が姿を現した。
「ああ、お帰り。お疲れ様」
そう言って、彼は珀が冷たいままの料理を食べていることに気づいたようだ。
呆れたふうで言った。
「あたためなかったの? 冷めてたら美味しくないでしょう。レンジにかけるから、ちょっとだけ待ってて」
「いいよ、そんなの。面倒くさい」
別に特段食べたいわけでもなかったからよかったのだが、篤人は焼き魚の皿を取り上げると元通りラップをかけて電子レンジに収めた。その一方で、味噌汁の鍋に火を入れる。
あたたかいものを食べろというなら、そもそも焼かなければいい。しかし「焼いて食べて」などと書いておいても珀は絶対にその手間を惜しんで魚を片付けるだろう。それがわかっているから、せめてと思い先に焼いておくのには違いない。
篤人が振り返った。
「珀さん、俺考えたんだけど」
「何?」
食事中も珀はスマートフォンを見る。ニュースやSNSをチェックして入れられるだけ情報を入れておくのだ。仕事柄必要なことでもある。
篤人はそれが気に食わないのかもしれないが、知ったことではない。
「リタイアしたおじさんたちが、家にただいても暇だから家事でもしようって料理を習うケースが結構あるらしくてね」
これにはさすがに珀も顔を上げた。
「それ、なんの話?」
「まあ、ちょっと聞いてよ。それで、そういうおじさんたちって女性の多い料理教室だとちょっと恥ずかしいとか、奥さんが嫌がるとかいってね、男性限定の教室に入りたがる人も多いみたいなんだ」
「ふうん」
だからなんだ。
篤人は続けて、珀の眉間に皺の寄るようなことを言った。
「俺もちょっと習ってみたいなって思ってるんだ。珀さんも一緒に行かない?」
「さっきのおじさんたちの話とそれと、なんの関係があんの?」
「珀さん女の人の多いところだと嫌がるだろうなと思って。男性限定でリタイアおじさんが多かったら、のんびりやれるんじゃないかな」
「行かない」
ぴしゃりと断ったら、篤人は苦笑した。
「珀さん放っておくとご飯もろくに食べないし、なんていうか、食にもっと興味を持ってほしいんだよ。食事って大事だよ?」
カチンと来た。
「せっかく作ってやってるのに感謝が足りないって言いたいのかよ」
「そうじゃないけど。まあ、ちょっとはそれもあるけど。珀さん見てると心配になるんだよ」
「余計なお世話。これももういい。風呂入る」
珀は箸を置いた。珀さん――と篤人の声が追いかけてきたが、これ以上話したくなかった。
篤人とともに暮らすようになって、一年が過ぎた。
変な出会いのわりには、上手くいっている方なのだろう。少なくとも大きな喧嘩はしていない。今日のような小競り合いはしょっちゅうあるものの、たいてい篤人が折れて、珀は黙ってそれを受け入れる。そうすれば元の通りに、なんとなく上手くいっている風味の関係に戻る。
一緒に暮らしたいと言い始めたのは篤人の方だ。ふたりで住めば家賃も少し浮くし、篤人が家事をやるというから手間も減るし、他人の体温とセックスも手に入るし、と、珀は半ば打算で了承した。むろん、篤人に対する気持ちもあるにはある。けれどそれがすべてかと問われれば、珀自身も首を傾げる。
言った通り、篤人は家事を一手に引き受けた。珀は残業の多い、激務といってもいいような仕事だったから、平日は全く手伝えない。土日には多少手を出すが、それも申し訳程度といったところだ。そんな関係でも、篤人はほとんど不満を言わない。他人の世話をするのが好きなのだ。
風呂から上がると、テーブルの上はきれいに片付いていた。
「はい」
篤人がミネラルウォーターを渡してくる。珀はそれを受け取って喉に流し込んだ。水なのになんとなくまとわりつくような味だ。
「仕事、忙しそうだね」
篤人はさっきの話をひとまず脇に置くことにしたらしい。
「いつものことだよ」
珀は答えて、ソファーに身を投げ出した。
疲れた。
篤人は隣に身を寄せてきて、慰めるかのように肩を抱いた。そう優しくされると、珀もさっきのあれは悪いことをしたかと気が咎める。
珀は篤人の方に首を巡らし、唇を重ねた。篤人も抱きしめる腕に力をこめて応えてくる。
「もうベッドに行く?」
篤人が誘った。
珀は頷いた。明日も仕事だが、仕方がない。諍いをセックスで収めるようなやり方は上手くないともどこかで思い、他方でそんなことを気にしても仕方がないと思う。
寝室で、珀は篤人と口づけを交わしながらベッドに倒れ込んだ。舌を絡め合い、身体を弄り合ううち、性感が高まっていく。
「大丈夫?」
篤人が訊いた。残業続きの珀を労っているのだろう。
「いいから、早く」
珀は篤人の下腹部に手を這わせた。いつだって彼のぬくもりは恋しいし、それで貫かれるのを待ち望んでいた。
望み通りに貫かれた瞬間、珀は背を仰け反らせて悶えた。首や肩には凝りが残っていて、若干の痛みが走った。明日になれば腰も痛くなるだろうとぼんやり思った。
明日になれば、こんなに疲れているのになぜセックスなぞしたのかと自分と篤人を恨むだろう。気持ちいいのはいまだけだ。でもいまは、いまこの時だけが欲しかった。
「あ……、あぁ、ん……っ」
首筋にキスが降ってくる。吸われて、舐められて、意識が白濁していくようだ。
「珀さん、好きだよ」
篤人が囁いた。
終わって横たわっていると、不意に彼が言った。
「明日は何食べたい?」
もう眠い。明日のことなんて考えたくなかった。
「シチュー」
珀は呟いた。口を突いて出た希望だった。
「普通のシチュー? 鶏肉の、白いやつ?」
「そう」
「わかった」
どうせ明日も残業だ。用意されていたところで食べられるかどうかわからない。
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