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土曜に約束の映画を見た。劇場公開当時は随分話題になったヒット作だが、いざ観てみると退屈で退屈で予想通り眠くなってきた。
コンテンツのヒットは何より売り方が大事だ。広告代理店に勤めている珀はそう思う。中身が駄作でも売り方次第でヒットを飛ばすことはできる。それをやらなければならないのが珀の仕事だ。
この映画もそういった類いだろう。とにかく初動を取れば勝ち。後は勝手に話題になる。流行なんてそんなものだ。
篤人にもたれながら、珀はうとうとしていた。彼の手が腰に回っていて、あたたかくて心地よかった。今日はこのままベッドになだれ込むのだろうかと考えていた。
映画が終わる。
「まあまあだった」
篤人が慈悲深い感想を漏らした。
「どこが? 喚いてるだけのつまんない映画だったろ」
「ええと、まあ……。珀さんが起きてたのが意外だった」
「寝ようとはしてた」
「それはわかってる」
篤人はテーブルを指した。出前のピザとフライドポテトが上がっている。
「もういいの?」
「冷めてる」
「あたため直そうか? この間ネットで調べて、しなしなポテトがカラッと復活する技を習得したよ」
「面倒くさい」
こう言った珀を、篤人は長いこと見つめていた。
「珀さんはいつもそう言うね。俺があたため直すよって言うと、必ず面倒くさいからいいって」
どくんと胸が跳ねた。そんな反応を返した自分の心臓が不思議だった。
いつもと同じ反論しかできなかった。
「だって、面倒だろ」
「あたためるのは俺だよ? 俺がやるって言ってるのに、面倒って変じゃない?」
珀は目をそらした。
「シチューもそうだけど、ちょっと手のかかるものを作ろうとしたら面倒くさいって。俺がやりたいだけなんだよ。珀さんは気にしなくていいのに」
「別にいいだろ。面倒なものは面倒なんだし」
「面倒だ面倒だ言いすぎだよ。食事も面倒くさいって言い出したら人間終わりだと思うよ」
「食事が一番面倒くさいだろ。掃除、洗濯、風呂、寝る」
篤人は頭を振った。
「生きるのに重要なことばっかり。前から思ってたけど、珀さんは死のうとしてるみたいに見える。自分なんかどうでもいいって。そういう態度って、セルフネグレクトに近いんじゃないの?」
珀は立ち上がった。
「そういうのやめてくれない? なんとか症候群とかすぐラベル貼るの。なんでもそう言えば通ると思ってるのかよ」
「ラベルを貼って売り出すのが珀さんの仕事じゃなかった?」
一瞬言葉に詰まった。言い返せなかった。
仕方なく卑怯な選択をした。もっとも、この卑怯な選択は珀にとっては常套手段だったが。
「風呂入る」
逃げた。
しかし風呂はまだ溜まっていない。珀は給湯器リモコンのスイッチを押し、バスタブの縁に腰かけた。
篤人があんなことを言うとは思わなかった。
彼の言う通り、何かにラベルを貼って売り出すのが珀の仕事だ。それが中身と違っていようと貼ってしまえば本当になる。
だが、好きでやっているわけではない。
広告代理店勤務といえば、たいていの人間が金や欲に結びつける。華やかな業界に勤めるエリートだと思われる。珀の会社は下請けだからそこまでてはないが、その端っこに引っかかっていることは確かだ。
――忙しそうだね。
――給料いいんでしょう?
このふたつが、業種を言うと返ってくる台詞のトップ。事実忙しい。給料もいい方だ。でも、いつも何かを擦り減らしている。
ネグレクト。あらゆるラベル貼りの中で、珀はこの言葉が最も嫌いだ。自分が母親にされてきたのはそれなのではないかと、時に考えることがあったから。その度に否定してきたから。
その言葉で検索をかけると、出てくるのはひどい事例ばかりだ――何日も食事を与えない、車内放置、病気でも治療させない、置き去りにする。
自分は違う。そこまでひどいことはされていない。ただ、時々、ほんの数日、母親が帰ってこなかったり、食べるものがなかったりしただけ。祖父母が来たから飢えることもなかった。洗濯のことだって、珀は洗っていない衣服が不潔だとは知らなかったのだから、別にたいしたことではない。それに、これもほんの数日のことだ。
いまの珀には特になんの後遺症もないのだから、母親は別に悪いことはしていない。変な女だっただけ。幼稚だっただけ。
ただ、珀は母親が嫌いだ。吐き気がするほど嫌いだ。社会人になってからはほとんど会っていないし、死んでも涙ひとつこぼさないだろうと予想がつく。幼い頃のことなんて二度と思い出したくない。何かのラベルを貼るのは嫌だけれど、ではあれはなんだったのかと訊かれれば答えられない。
手が震えている。珀は拳を握った。
――俺がやるって言ってるのに、面倒って変じゃない?
変ではない。手間なんてかけてほしくない。俺のために。俺なんかのために。
どうしてだと篤人は言う。そんなこと珀にもわからない。母親が自分にしたことを、今度は自分で自分にしているのだろうか。
このところ篤人との言い合いが増えてきた。合わないのかもしれない。彼といると、自分がどれだけ歪んでいるかを思い知らされる。
潮時なのだろうか。
バスルームの扉が開いた。
「珀さん?」
篤人が顔を覗かせる。
「風呂沸かしてるんだよ」
珀は彼を見ずに行った。
篤人が隣に座る。バスタブの縁は男二人の体重を支えられるほど強くないと、どうでもいいことが頭に浮かぶ。
「珀さん、明日シチュー食べる? 普通のシチュー。鶏肉の」
珀の肩を抱きながら、篤人は言った。
「なんで?」
シチューはついこの間食べた。
篤人はふわりと微笑む。
「珀さんはシチューが好きだから。何作ってもたいして食べないのに、シチューだけはおかわりするから」
「そうか?」
「そうだよ」
なんでもない白いシチューだ。誰でも作れて、丁寧でも繊細でもない、ただのシチュー。
「母親が作ってくれたんだ。一番機嫌のいい時に」
珀はぽつりと言った。
シチューの匂いがすると、珀は安心した。母親は笑顔で、珀にたくさん話しかけてくれて、頭を撫でたりもしてくれたから。
一番機嫌のいい時の母親の思い出に、珀はいまだにしがみついている。シチューなんて嫌いになれればいいのに、どうしてもできない。食べると安心する。何ひとつまともに動いていない時でも、なんとかなるような気がする。
――普通のシチューが食べたい。
「明日はシチューにしよう。それで、珀さんは俺と一緒に買い物に行く」
篤人が宣言した。
「一緒に? なんで?」
「ふたりで選びたいから」
「食材なんて誰が何選んだって同じだろ」
「気分が変わるとだいぶ変わるよ。たまには一緒にいこうよ」
ね? と優しく請われれば、珀も断りづらくなる。
「わかったよ。たまにはね」
「うん。たまにはね」
「料理教室には行かないよ」
珀はいつかの話題を自分から蒸し返した。
「それはもう諦めたよ。でも、家で一緒に作るくらいはしてくれるよね?」
「まあ……、気が向いたら」
篤人は珀の手を握った。まだ震えていた。
「シチュー作って食べよう。ふたりで」
そしてまた元の日々に戻る。何かが変わったような、何も変わらないような日々に。
珀は相変わらず面倒だ面倒だと言い、あまり食べない。ただし、篤人が料理をあたため直してくれるのには、面倒だとは言わなくなった。
それから、シチューを自分で作れるようになった。できるようになってみると簡単で、あまりにも簡単で、珀はなんだか泣きたいような気分になった。
「俺は牛乳入れて、最後に塩コショウ振る派」
篤人が言った。
終わり
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