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ナマヌルイコイ
目が覚めたら、隣に知らない男が寝ていた。
ちょっと考えて思い出す。そうだった。昨日部屋の前で拾った男を泊めたのだ。別に何もしていない。酔ってもいなかった。隣の彼も自分もちゃんと服を着ている。向こうはTシャツとハーフパンツ。こちらはパジャマ。とはいえこの点は、若干不愉快な記憶が呼び覚まされる。
いきさつはこうだ。深夜近くに帰宅したら廊下にこの男がいて、あっちに行ったりこっちに来たりと不審なことこの上なかった。その場で警察を呼んでもよかったのだが、あいにくその時珀は疲れ果てていた。納期の短いプロジェクトに携わっているせいで、連日残業が続いていたのだ。
その男がちょうど自分の部屋の前に来た時、珀は声をかけた。
『あんた、何してるの』
男は振り返った。不審者のわりに爽やか風味の男前だった。といっても、髪はぼさぼさだったし、これ以上ないくらいの困り顔だったが。
『それが、追い出されちゃって』
彼が指差した先は珀のふたつ隣の扉だった。
このフロアに夫婦なんて住んでいただろうか。近所づきあいもしないからよくわからない。ふたつ隣が珀の部屋と同じ間取りだとしたら、ふたりで住むには狭いのではないかと思う。
『行くところないの?』
『深夜ですし……』
友人宅に転がり込むには、時刻が遅過ぎるといったところだろう。それはそうだ。珀も普通ならば、こんな時間に泊めてくれと突撃されたら問答無用で追い返す。
が、いまは、なんだかいろんなことがどうでもよかった。この男の話が真実か嘘かもわからないが、不審者に刺されて死ぬならそれでもいいかと思えた。
『うちそこだけど、来る?』
『えっ?』
彼は驚いた。当たり前だ。
『ひとり暮らしだし、おもてなしはしないけど、寝るくらいだったらいいよ』
『いえ、でも、それは』
『まあ、とにかく、来るなら来なよ』
来ないというならそれでもよかった。
珀が鍵を外し、扉を開け、閉めようとしたら、男は足を踏み入れてきた。
『すみません。お邪魔します』
それから彼は、訊きもしないのに事情を喋り出した。名前は久島篤人。二十七歳。菓子メーカーの社員。珀のふたつ隣の部屋で、ふたつ年下の恋人と同棲している。
『恋人って、男? 女?』
珀が質問すると、篤人はうろたえた。
『それは、その。でも、誰にでもそういう気になるわけじゃありませんから! あなたを襲ったりとか絶対しません!』
恋人は男のようだ。
『それで? なんで追い出されたの?』
『俺、結構束縛とかするので、それが嫌だったみたいです。いい加減にしろって怒鳴られました』
『スケジュール管理しようとしたとか? 一時間ごとに報告させた? GPSで追跡した?』
『いえ、さすがにそこまでは。帰りが遅かったので、何してたのかって訊いただけです』
『はあ? そのくらいで束縛? びっくり』
ちなみに珀は上に挙げたことをひとりの相手に全部されたことがある。あれは逃げるのが大変だった。引越し先にまで現れた時にはどうしようかと思った。最終的には殴り合いになり、お互い二度と顔も見たくないと別れたのだが。
『そのくらいで怒るってことは、彼氏絶対浮気してるね。間違いない』
『やっぱりそうなんでしょうか。薄々そうじゃないかなとは思っていたんですが』
篤人はしょんぼりしていた。
『じゃあ、俺はシャワー浴びてくるから。適当にくつろいでて』
知らない人の家で「くつろいでいて」も何もないものである。後になると変なことを言ったとわかるが、珀はその時は何も考えつかなかった。知らない奴を部屋に残してシャワーを浴びるなど危険だ、とも思わなかった。
戻ってくると、篤人は普通に待っていた。
『寝るか』
珀は言い、寝室に向かった。
『じゃあ、俺はソファーで』
と言って篤人が指したのはひとり用のローソファーだ。寝られるような代物ではない。
『一緒に布団で寝れば? 俺は別に気にしないし』
『え、いや、でも』
面倒だったので、珀は返事を待たずに寝室に入った。ベッドはなく、床にマットレスを置き、その上に布団が敷いてある。掛布団を捲ると、先程と同じく篤人は後ろについてきていた。
『すみません。お言葉に甘えます』
『ん』
珀は壁を向いた。篤人は後ろに入ってきた。こんな間近に誰かの体温を感じるなんて随分なくて、つい自覚してしまった。
――ああ、俺、人肌恋しかったんだ。
だから見ず知らずの男を部屋に引き入れるなどという危ない真似をしたのだ。納得だった。
『そういえば、あなたのお名前を聞いてませんね』
篤人が言った。
珀は身体ごと向き直った。
『セックスする?』
『えっ?』
『別にいいだろ。彼氏だって明らかに浮気してるんだし』
同類だったんですね、とか、浮気しているとは決まっていません、とか、言いたいことはたくさんありそうだったが、篤人は小さくため息をついて、必要なことだけを言った。
『すみません。それはできません』
珀相手ではその気にならないのか。あるいは、たとえ恋人が浮気性だったとしても、自分は浮気などできないのか。
馬鹿にしやがって。
『ふうん。真面目なんだな』
珀は瞼を伏せた。くさくさした気分だった。しかしそのまま眠って、起きたら篤人が隣で寝ていた――というわけだった。
珀は布団から抜け出し、寝室を出た。洗面所で顔を洗い、キッチンに行って水道水を一杯飲み、冷蔵庫を開けてみたが、腹の足しになりそうなものは何も入っていない。忙しいと買い物も億劫になってしまうからだ。
文字通りの意味で腹は空っぽだし、違う意味でも空っぽだった。おまけに今日も仕事。それを思うと食欲もなくなる。
寝室の扉が開いた。
「おはようございます」
爽やか系だと思った通り、朝から爽やかに眩しい笑顔だった。うんざりするほど。
「彼から連絡が来てました。昨日はごめんって。うちに帰りますね」
「ふうん。よかったな」
「昨日は結局お名前聞けませんでしたよね」
「板野珀」
「はく?」
「琥珀の珀」
と言っても、一度であの字だと理解してくれる人間は少ない。篤人も微妙な顔で首を傾げていた。詳しく教えてやる気もなかったから、説明はせず放っておいて寝室に入った。カーテンを開けて、掛布団を畳んで、着替えを取り出した。いつも通りの開襟シャツとスラックスだ。
「お仕事ですよね? スーツじゃないんだ」
篤人が言った。他人の着替えを覗くとはいい趣味である。
「あんた、うちに帰るんじゃなかったの」
「ええ、帰りますけど。なんのお仕事なんですか?」
「広告代理店」
「忙しそうですね」
「まあね」
「おいくつですか?」
「二十九」
珀は通勤用のバッグを手に取る。鍵を持つ。篤人を見る。彼も玄関に向かう。
「俺も急ぎます。板野さん、本当にありがとうございました」
「ん」
廊下に出ると、篤人はふたつ隣の部屋のチャイムを押した。すぐに扉が開き、ちょっとかわいい感じの青年が顔を出した。
彼氏は家で待っていたらしい。というか、篤人も昨夜の状況をどう話すつもりだろう。「親切な隣人が泊めてくれた」あたりだろうか。まさかその親切な隣人にセックスの誘いを受けたとは言うまいが。
まあいい。ふたりがどんな話をしようが、自分には関係のないことだった。珀は篤人を頭から追いやり、階段を下りた。
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