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 昨日から降り始めた雨は一向に上がる気配がなく、むしろ山に入ったとたん雨脚(あまあし)は強まってきた。未舗装のぬかるんだ道を慎重な足取りでゆるゆると進むが、快適さとはほど遠い雨と寒さと泥水に、早くも心が折れそうだ。  踏み出した足がつるりと滑り、「みゃ!」という妙な悲鳴を上げた志馬(しま)は、慌てて腕を伸ばすと細い木の幹を必死に掴んだ。  もう嫌だ。帰りたい。2時間かけてここまで登ってきたが、何がハイキングコースだ、ただの獣道じゃないか。しかも雨、大雨だ。 「天候さえも我々に味方してくれている!」  山に入ることが決定したとき、そう言って、まるでミュージカル俳優の如く高笑いをしたのは、(みなと)那伽(なか)署の警部補、久我(くが)亮衛(りょうえい)──すなわち自分の上司である。 (天気が味方してるだと? 雨だぞ大雨!)  荒い息の間から、志馬は豪快に舌打ちした。と、その直後、前を歩く緑色のレインコートがふと足を止め、ゆっくりと振り向いたので、志馬は思わずびくりと身を竦めた。……否、この雨とこの距離で、今の舌打ちが聞こえた筈はない。  フードから僅かに覗いた肌は蒼白く、漆黒の髪が細い束となって幾筋も頬や額に貼り付いている。残念だ、と志馬は思った。レインコートが黒だったら、立派な吸血鬼なのに。  その吸血鬼の、血色の悪い薄い唇がそっと動いた。 「俺には生き血を啜る趣味はない。悪いな」 「は……はあっ!?」  読んだのか、俺の思考を読んだのか、やっぱり読めるのか!  再び前を向いて歩きだした吸血鬼の背を暫し茫然と見つめていたが、ふと我に返り、慌てて追う。
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