3.愛美の章 誕生日

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3.愛美の章 誕生日

 冬休み明け、最初の授業は選択科目の西洋史だった。英文学専攻の愛美には全く関係ない科目だが、単位は取らなければならない。  定年を過ぎた老人の講義はとにかく退屈で眠くて、ピアノの練習に疲れた体を休めるにはもってこいだった。  試験まであと4日に迫り、生徒の数が十倍以上に増えている。  愛美も第一回の講義から数回出たきりだ。丁寧にノートを取っている小雪のおかげで、レポートはなんとか乗り切れそうだった。  いくつものバンドをかけもちしている愛美は、部活の決まった練習時間と自宅練習では弾き足りず、たびたび授業を抜け出して部室にこもっている。  もうすぐ始まる就職活動に周囲は浮き立っているが、そんなことより目の前に迫っている試験を通過しなければ卒業もできないのに、と愛美は冷めた目で見ていた。  就職なんてその気になればいつだってできる。万が一、受けたところが全部不採用だったら、父の会社に雇ってもらえばいい。今目の前にあるかけがえのない時間を勤めるかどうかもわからない会社に費やしたくない。  授業が終わって建物の外に出ると、冷たい山おろしが愛美の頬にふきつけた。出入り口のところで身を縮めていると、小雪はさっさと前を歩き始めた。 「ねえねえ、今日うちによってかない?」  あわてて腕を小雪のダッフルコートにからませる。小柄で細い体をしているのに、小雪の背中はいつもしゃっきりとしていて、腕を引いたくらいでは揺るがない。  愛美はのぞきこむようにして言った。 「お母さんがケーキを焼いて待っててくれるんだって。練習に行くなら、七時くらいに大学を出てもいいし」 「ごめん……プレゼント用意するの忘れてた……」  小雪は気まずそうに眉をしかめて言った。愛美はからませていた腕を抜く。 「そんなのいいよー。小雪を連れてくるって言ったらお母さんもはりきってたからさあ。今日はバイト休みなんでしょ? そうだ、ノブも誘おっかなー」  軽くスキップをするような足取りで先を歩き始めたが、小雪がついてこない。ピンクのマフラーをひるがえしてふりむくと、苦い顔つきをしていた。  誕生日パーティに誘っているのに、何故そんな顔をされなければいけないのか、愛美には理解できなかった。  三人兄弟の末っ子でお姫様のように育った愛美は、自分が計画したことにはほとんどの人がついてくると信じているし、実現させる力もあると自負している。  信洋が小雪に片思いしていると知った時、二人の仲を取り持ったのも愛美だった。  女子高時代から小雪は人気があって、他校の男子からよく交際を申し込まれていた。亡き兄の慎一郎がこっそりと想いをよせていたことも、なんとなく気づいていた。  兄の死後、小雪から快活さが失われた気がして、愛美はあの手この手をつくした。年子の兄を失った自分が悲しむのは当然だけれど、そんなことに親友を巻きこみたくなかった。  その作戦のうちのひとつが、信洋と付き合うことだった。大海原のように広い心を持つ彼ならきっと小雪を癒してくれると期待したのに、男子校出身の信洋はしどろもどろしているばかりで、全く頼りにならない。  狭いキャンパスにひしめき合う学生たちの向こうに、十号棟にむかって走っていく信洋の姿が見えた。  ひざ丈のニットワンピースを揺らしながら、愛美はかけよっていく。 「ねえ、今日私の誕生日パーティをするの。小雪もくるし、ノブも来るよね?」  とびきりの笑顔を作って言ったのに、信洋は両手をあわせて謝り始めた。
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