3.愛美の章 誕生日

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「ごめんっ! 今日はバイトがあるし、提出期限がせまってるレポートもあるんだ」 「一日くらい休んだっていいでしょ。レポートもなんとかなるって」  信洋が苦笑いをしながら視線をそらす。あとから来る小雪に助け船を出してもらおうとしているのがわかって、愛美は信洋の前に立ちふさがった。  彼の足が落ち着きなく動いている。愛美は彼のスポーツバックを握って離さなかった。 「大丈夫だってばー、私の誕生日とバイトとどっちが大事なの?」  うしろから来た小雪が割って入ると、彼の顔がぱっと明るくなった。 「ノブはバイトしなきゃ大学にも出てこられないんだから、無理強いしないの」 「えーどういう意味?」 「バイト代で定期券を買ってるってこと」 「そんなの親に出してもらえばいいじゃない」  さらりと言うと、小雪はいつものようにため息をついた。 「行っといでよ。授業、遅れたらまずいんでしょ?」  そう言って信洋を見ると、すっぽんのようにかぶりついていた愛美の手をもぎとった。  彼はあわてて去っていく。行くならさっさと行けばいいのに、何度もふり返っては手を合わせて謝るポーズをしている。  二限目の始業チャイムが鳴り、学生たちは方々に散っていった。悠長に学生の動きを眺めて信洋の文句を言っていると、小雪は携帯電話を取りだした。 「やっば、先生もう来てるみたい。いつも遅れてくる人なのに……じゃあね、マナ」  愛美の腕をふり払うと、小雪は急な坂道をかけおりて行った。  みぞれまじりの雪が降り始める。そんなにあわてたら転んじゃうよ、と小雪の去っていった方を見ながら思った。  五年前、大雪が降ったあの日――雪道でスリップした大型トラックにまきこまれて、兄の慎一郎は命を落とした。遅刻なんて気にせずに、近道になるあの坂を通らずに登校していれば死なずにすんだかもしれない――  あの日以来、雪の日は急がないようにしている。  ゆるく巻かれた髪をなでながら、十号棟の地下にある音楽練習場の方に歩いていった。  正門のすぐ脇になだらかなスロープがあり、下りていくと資材置き場に入る。  大きく開いた出入り口付近には背の高い灰皿があり、部員のひとりが雪を頬に受けながらうまそうに煙草を吸っていた。  奥には車が数台止められるほどの広い空間がある。板張りになった一段高い床の上に、学祭などのイベントのときに使われる看板や木材が山積みになっている。  部外者から見ればただの倉庫にしか見えないが、この先に音楽練習室がいくつも連なっている。  一号室から四号室は六畳ほどの広さで、主に個人練習とパート練習に使われている。  薄暗い廊下をはさんで扉がある五号室は、ジャズ研究会が根城にしている部屋だ。  ドラムセットや数々のアンプを始め、ホーンセクションの楽器類も全てこの部屋に置かれている。十二畳以上の広さはあるようだが、部屋中にパイプ椅子やら広げたままの楽器ケースが転がっているので、歩くこともままならない。  愛美はいつもピアノに近い奥の扉から出入りしている。  廊下の奥から小さなギターの音が聞こえ、閉じた防音扉の向こうからテナーサックスの音色が漏れ出している。  オリエンテのベースは廊下の一番奥に寝かせてある。慎一郎のベースを小雪に使わせたいと言いだしたのは長兄の武だった。部室にある状態の悪いベースじゃ上手くなれない、慎一郎のベースも放っておいたら痛んでしまう、だったら貸してやればいい、と何度も両親に話していた。  愛美は反対だった。友人にそんな重い物を背負わせたくなかった。けれど小雪はすんなりと了承して、もう三年になる。武は満足そうだった。愛美は今でも納得していない。  もしも空から慎一郎が見ていたら、どうして小雪に押しつけるんだよ、兄貴――そう言うに決まってる、と思っていた。  愛美は五号室に入った。楽譜が山積みにされたピアノの前に座って、譜面台の黒い部分にうつる自分を見ながらため息をついた。追悼セッションの曲を練習するつもりが、全く気持ちが乗ってこない。  こんなのは所詮、身内の自己満足だ。五年もたてば環境も変わるし、友人関係も変わる。  武が『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』にこだわっているのは知っているが、そんなものを吹いたって慎一郎が月にいるわけじゃない。焼かれて骨になったのをこの目で見たのに、男のセンチメンタルなんて本当に馬鹿ばかしい――  そこまで考えて、手をぎゅっと握った。武の気持ちはわかっている、両親の悲しみも痛いほど知ってる。  でも今日くらい忘れて、私の誕生日を祝ってくれたっていいじゃない――  アップライトピアノの黒い側面に映る自分の目じりは、武にも慎一郎にも似ていなかった。
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