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小雪を連れて自宅に戻ったのは午後八時を過ぎた頃だった。花柄のスリッパをはいた母親に出迎えられ、小雪は恥ずかしそうに頭を下げた。
「なーに? まだうちに慣れないの?」
「なんか……前より乙女になってない?」
エプロンをつけて前を歩く母に聞こえないように彼女は小声で言った。廊下をぐるりと見上げたあと、玄関にふりかえる。
靴箱の上には母がデコパージュした石鹸が並べられ、壁にはパッチワークの大作がつられている。以前はワイヤープランツを置く程度だった廊下には、様々な大きさのドライフラワーが飾られていた。
「タケ兄が家を出たのをいいことに、お母さんが模様替えしまくってるの。お父さんは寝に帰るだけだし、私と二人だからねー」
そう言ってダイニングキッチンに入ると、食事のいい香りが漂っていた。手作りのデコレーションケーキを始め、愛美の好物が並んでいる。
「小雪ちゃんはオレンジジュースかしら。あっでも、もうお酒も飲めるものね。そこ座ってね。お皿はもう少し大きい方がいいかしら……」
小雪が返事をする間もなく、母はあわただしく動き回っている。控えめのカントリー調だったダイニングルームは、いつの間にか大小さまざまのレースで彩られている。小雪がそわそわした様子で部屋を見渡しているが、正直、愛美も落ち着かない。
ここに父が帰ってきて食事をとるのだから、ため息しかでないことだろう。
母はエプロンで手を拭きながら、階段にむかって声を上げた。
「シン、ごはん出来たから下りてきなさい」
椅子に座ろうとしていた小雪の肩がピクリと動いた。母は何事もなかったようにフォークを並べながら、「シン、早くー」と言っている。
愛美は小雪にそっと耳打ちした。
「別にシン兄の幽霊が二階に来てるとかじゃないからね。タケ兄が帰ってきてるのかも」
階段を登りながら「タケ兄、いるのー? お母さんが呼んでるよー」と言ってみたが、返事がない。うしろから小雪がついてくる。六畳間の洋室を開けると、やはり兄がいて、こちらを向いていた。
「いるなら返事してよ、ごはんできたって」
紺色のニットカーディガンを着た兄の視線が、愛美のうしろに流れた。
「来てたのか」
「あ……うん。今日、マナの誕生日だから」
小雪が笑顔を作ったのがわかった。彼は何も言わずにふたたび本棚を見上げる。
兄二人が使っていたこの部屋は、慎一郎の死後も、武が家を出てからもほとんど変わっていない。二段ベッドくらい解体すればいいのにと思うが、母が物を動かさないように丁寧に掃除しているのを見ると、何も言えなくなってしまう。
時おり帰ってくる長兄が、次兄のデスクの前に座っていたりすると、心臓がぎゅっと握りつぶされたように苦しくなる。母には悪いけれど、愛美も早くこの家を出たい、と思っていた。
「マナ、呼んでる」
静かすぎて耳鳴りがしそうな部屋で、兄がつぶやいた。愛美が「えっ、何?」と聞き返すと、ドアの外を指さして「母さんが呼んでるけど」と言った。
やっぱり聞こえてたんじゃない、と腹を立てながら愛美は階段をかけ下りた。
母に言われるまま食事の支度を手伝ったが、階上に残したままの兄と友人はなかなか降りてこなかった。
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