3.愛美の章 誕生日

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 部屋の明かりを消してろうそくを吹き消す儀式を終えると、小雪がトートバックから包み紙を取りだした。 「これは私。こっちはノブから」  淡いブルーの包み紙をふたつ受け取った。大学近くの駅前にある、愛美のお気に入りの雑貨店のものだ。中には金色の鎖がついた小さな腕時計と、アンティーク風の模様がほどこされたスケジュール帳が入っていた。どちらも店によるたび、愛美が「可愛い」「欲しい」と連呼していたものだ。   燃え尽きたろうそくの匂いが鼻をかすめる。甘いケーキの香りが際立って、胸の内側からじわじわと熱くなってくる。 「お誕生日おめでとう、マナ」  慎一郎が座っていたはずの椅子で小雪が笑っている。子供の頃は、家族みんなが誕生日を祝ってくれた。仕事に忙しいはずの父も着席して、プレゼントを渡してくれた。自分の誕生日を祝ってくれるのはもう母しかいない――そんなひねた考えはいつから持つようになったのだろう考えていると、目じりに涙がたまっていった。 「ありがとう、小雪。それからいないけど、ノブ」  二人の名前を口にすると、よけいに視界がにじんできた。小雪が笑った。 「ノブってば、プレゼントまで渡しそこねたらマナが二度とバンドを組んでくれないかもしれない、だから頼むって私をあの店まで引きずっていったのよ」  思い出し笑いをしている小雪の隣に、あわてふためく信洋の姿が見える。彼のビー玉のように大きくて黒い瞳は、いつも小雪を探している。  信洋が選んで手にとったはずのスケジュール帳をなでると、胸に小さなとげが刺さったような心地がした。 「お兄ちゃんはないの」 「何がだ」 「今の流れでわかるでしょ。プレゼントに決まってるじゃない」  兄はニットカーディガンのポケットを探ると、チケットを二枚、テーブルの上に置いた。 「綿谷さんにもらった、男でも連れて行って来い」 「私に付き合ってる人いないの、知ってるでしょ!」 「そりゃあ、そんなお子様じゃなあ」  全身を舐めるようにしてみたので、愛美は舌を突き出した。 「三枚あれば小雪とノブといけるのにー。もう一枚ちょうだい」 「無茶言うなよ。ユキコ、適当に男を見つくろってやれ」  話をふられた小雪はサラダを取り分けている真っ最中だった。母の指示を仰いで、慣れた手つきでトングをつかんでいる。 「マナの好きな人じゃないと意味ないでしょ」 「おまえのそういうしゃべり方、腹立つくらい紗弥にそっくりだな」  兄はわざとらしくため息をつくと、缶ビールのプルトップを引いて言った。 「その少女趣味な服をどうにかしないと、男もよってこないだろ」    愛美は自分の服を見下ろした。レースの襟に大きめのドットがついたニットワンピース。丈は膝より少し上で、黒い8デニンスのタイツをあわせている。こんな恰好、大学の構内には掃いて捨てるほどいる。  どんなに着飾っても平凡な顔立ちの自分より、陶器のように白い素肌をもつ小雪の方がよっぽど目立つ。  小雪本人にはあまり自覚がなく、ニット帽にダッフルコートをあわせたり、ロングスカートにスリッポンをはいたりといつも野暮ったい姿だが、スカートの裾からのぞく真っ白のふくらはぎを見つけるたび、女の愛美でもときめいてしまう。  それなのに性格はさっぱりと男らしいところもあって、全くずるいと思う。  愛美はサラダの上に唐揚げを乱暴に盛りつけて、兄に突き出した。 「ほっといてよ。お兄ちゃんなんか年中、黒か紺の地味な恰好してるくせに」 「俺は顔が派手だからこれくらいでちょうどいいの」 「はいはい。スマートで爽やかなシン兄とは全然似てないものね」  彼は返答しなかった。悟りきったような顔で愛美を見つめてくる。妙な圧力を感じて居心地が悪くなったところへ、母が大きなラザニア皿を持ってきた。 「ケンカはもういいからお料理食べちゃって。さめちゃうわよ」  目の前に湯気が立ち上り、その向こう側に兄の姿がかすんでいく。いつもなら食欲を刺激する大好物のラザニアが、なんだか重苦しく愛美の前に鎮座していた。  「お兄ちゃん、上で何してたの?」  彼は唐揚げを口に突っ込んだあと、フォークを置いてめんどくさそうに言った。 「譜面を探してたんだよ」 「何の?」 「何って、ハウハイだけど」 「そんなのどこにでもあるじゃない」 「俺のじゃない。シンが作ったベースのソロ譜が欲しいんだ」 「そんなもの今更どうするの」 「こいつに弾かせる」  そう言って、小雪を指さした。途端に彼女の顔に色がさした。愛美様子をうかがうような顔をすると、彼女は小さくうなずいた。先ほど二人がなかなか二階から降りてこなかったのは、この交渉をしていたからか、と思った。 「私も追悼セッションに出させてもらうことになったの。それでハウハイのベースソロなんて聞いたことがないって言ったら、シンのがあるからって」  年子の兄のことを、小雪はそう呼ぶ。誕生日が二ヶ月しか変わらない彼らは、同級生のように仲がよかった。慎一郎と小雪が付き合っていずれ結婚すれば、小雪と姉妹になれるのに、と楽しい妄想をひとり膨らませていた時期もあったくらいだ。 「まだそんな話してるの? 小雪は出さなくていいって、この前も言ったじゃない」  語気を強めて言ったが、兄はどこ吹く風という様子でビールを飲んでいる。 「小雪にシン兄のハウハイなんて弾かせてどうするのよ、そんなのタケ兄の自己満足でしょ。だいたいあのベースだって、小雪に押しつけないでって言ったじゃない。私の友達をシン兄の身代わりになんかしないでよ」  となりで小雪が戸惑っている気配を感じたが、言い出したらもう止まらなかった。  彼はビールの缶を握りつぶすと、すっと立ち上がって言った。 「別に俺のためじゃない」  抑揚の少ない低い声だった。兄が感情を内に押し殺そうとするとき、そういう声を出すことを愛美は知っていた。しかし高ぶった自分の感情を押さえられなかった。 「じゃあ誰のためだって言うのよ」 「親父に決まってるだろ」  くっきりとした二重まぶたの瞳で愛美を見つめると、ダイニングルームを出ていった。  足音は玄関へと続いていき、そのまま家を出たようだった。  母が飲みこむようにため息をついたのがわかった。小雪にうながされて浮いていた腰を下ろすと、目の前にきれいに盛りつけられた小皿があった。 「せっかくのお誕生日なんだから、めいっぱい食べちゃおうよ」  あんな風に言ってしまったのに、小雪はいつものように笑っていた。後悔があとから押しよせてきて愛美が泣き出しそうな顔をしても、彼女の感情のさざ波は読み取れなかった。  小雪は、慎一郎の話をまだ信洋にはしていないようだった。  次兄の事故死によって小雪が受けた傷はどれくらいのものだったのか、五年経つ今、少しでも癒されているのか――愛美には未だにわからなかった。
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