4.愛美の章 巻時計

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 電車内に車掌の声が響いている。信洋の「大学に行くんじゃないの?」という声だけがかろうじて耳に入って、愛美はうなずいた。  すると彼はあわてた様子で愛美の腕を引っぱって、電車の外に引きずりだした。  いつの間にか大学の最寄駅についていたらしい。信洋の分厚い手のひらが、愛美の手首を握ったままだった。温かい熱に反応して、また心臓が活動を早めていく。  ふと我に返って、彼の手をふり落とした。信洋は太い眉を下げて苦笑しながら、「あやうく乗り過ごすところだったなあ」と言った。 「マナも今から授業?」  重そうなデイパックを背負った信洋が先に歩き出した。ついてこない愛美を不審に思ったのか、改札の向こうで立ち止まって待っている。 「授業なら急がないと遅れるよ」  そう言われてあわてて改札を通り抜けた。  駅構内のアナウンスも、改札機の電子音も、券売機の前に吹きこむ冷たい風も、いつもと変わらない。目の前を学生たちがあわただしく行き来している。信洋のゆったりとした立ち姿に、混乱した心が解きほぐされるようだった。 「どうした、ぼんやりして」 「……ちょっと考え事してて」 「マナのことだから、テストの心配じゃなくて、ピアノのソロを考えてたとか?」  他人の心の機微によく気がつく彼が、精いっぱいの誠意で愛美の気を紛らわせようとしているのがわかって、胸が熱くなった。 「もーそうなの。カウント・ベイシーのせいで、乗り過ごすとこだった」  そう言ってピアノを弾く真似をしながら、『スイーティ・ケイクス』のイントロを鼻歌でうたった。彼は「やっぱりね」と言って話をあわせてくれる。  信洋のことを考えてた――とは口が裂けても言えない。  駅のそばのカフェからワッフルの甘い匂いがたちこめてくる。小雪がいつも食べているアーモンドシュガーの香り、それから燃え尽きたろうそくの匂い、お誕生日おめでとうの声。ブレスレットのように華奢な金色の腕時計が手首に巻きついている。  愛美は歩きながらスケジュール帳を取りだした。 「これ、ありがとうね」  信洋の隣に並んであわただしくページをめくると、さりげなくのぞきこんできた。 「うわっ、もうこんなに書きこんでるのか?」 「だってノブと小雪の誕生日、忘れたらいやだもん」  昨日もらったばかりだが、すでに十二月まで書いている。直近の予定は、後期試験と練習とライブでほぼ埋まっているが、その先は誕生日や記念日がほとんどだ。  一月の予定はもう書きこむすき間がないほどカラフルに彩られているが、二月のある一点で信洋の視線が止まったのに気づいた。  慎一郎の命日、『追悼セッション』と書かれた欄だった。  愛美は食い入るように信洋の顔を見つめた。事実を知っているのか確かめたかった。  彼はふいに顔を上げると、またうつむいて頭をかいた。 「あ……いや、実はマナの女子高時代の同期から、お兄さんが亡くなってるってことは、ずいぶん前に聞いたんだ。ベースを弾いてたってことも」  あのオリエンテの、と言いかけて愛美は言葉を飲んだ。次兄の遺品を小雪が受け継いでいることは、プレイヤーの小雪の口から伝えるべきだと思っていた。  小雪と慎一郎が両想いならさっさと告白しちゃえばいいのに、と当時は考えていた。いつ二人が付き合いだすかとわくわくしていた。けれど違った。慎一郎が生きていた頃の小雪の視線がどこに注がれていたか、思い出すのは容易だった。  彼女が追っていたのは、いつだって黄金色のトランペットだった。  ただの憧れだと思っていた。女子高生の愛美が現役大学生のピアニストに熱を上げるのと、同じ感覚だと信じて疑わなかった。  だから信洋に告白させてしまった。大好きな二人が恋人になればなんて素敵だろう、という自分勝手な思考が働いたのは確かだった。  いつから間違っていたのだろう、付き合いだした半年前、慎一郎が死んだ五年前、それとも小雪と出会った頃、もっとずっと前、一体いつから武と慎一郎に理想の兄の姿を押しつけて――  不意に涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。感極まって泣く時と違って、こめかみから熱は引いていた。いくら拭っても、壊れた蛇口のように涙は落ち続けた。  あわてふためいた信洋が愛美の肩を持った。 「ごっ……ごめん! 無理に聞き出すつもりはなかったんだ。だってまだ亡くなって五年だし……しかも不慮の事故だって聞いたから……」  そうか、まだ五年しかたってないんだ、と脳の別の思考回路が静かに思った。もう五年も経つのだから、変わっていかなければと、ずっと思っていた。  亡き兄を思い出して泣いていると都合よく勘違いしてくれた信洋に、しがみついて泣き声を上げた。  彼のダウンジャケットをきつく握った。幼子のように泣き声を上げると、体中を支配するわずらわしい感情が洗い流されるようだった。  信洋が顔を真っ赤にしながら周囲を見渡すのがわかったが、愛美は泣くのをやめなかった。きっと彼ならどこか落ち着けるところに連れて行って、なぐさめてくれる。自分はぐずぐずと泣きながら、兄が死んだ経緯を話せばいい。可哀そうな妹の心情をつぶさに伝えれば、背中をさすってなだめてくれるだろう。  そうやっていつものように、濁流のように渦巻く感情は流し切ってしまえばいい。  巻時計の下にあったダッフルコートのことは――今は忘れてしまいたかった。
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