4.愛美の章 巻時計

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 その日の夕方、四限の授業を終えて十号棟の地下へむかうと、スロープの下に信洋がいた。足早に沈もうとする夕陽を受けながら、「大丈夫?」とでも言いたげな顔で首をかしげてくる。すでに練習モードに入っていたのか、ダウンジャケットは来ておらず、カットソーの袖を肘までまくり上げていた。  今から、愛美が有志で集めたビッグバンドの練習が始まる。バンドマスター兼コンサートマスターはもちろん愛美だ。クラブのレギュラーバンドでは吹き足りない部員を集めているため、みな練習熱心でライブを心待ちにしている。  気合を入れ直すため、「よしっ」と声を上げて大股で歩いていく。わざとらしい歩き方に信洋が苦笑したので、愛美は特上の笑顔を作って声をかけた。 「さっきはごめんね! もう大丈夫だから」  リズムパートを構成するドラムの信洋、ベースの小雪とは一回生のときからずっと一緒にやってきた。三人のあいだには揺るぎない信頼関係があると、愛美は信じている。少しの諍いで、バンド全体のリズムを狂わせるわけにはいかない。  プロのレベルには至らなくても、チャージが発生するライブを主催するからには、プロフェッショナルを貫きたいと思っていた。 「さあ、がんばろー!」  そう声を上げて信洋の腕を引っぱっていった。  一号室のそばを通った途端、全身に鳥肌が立ちそうなほどの懐かしく切ないウッドベースの旋律が聞こえてきて、愛美は立ちすくんでしまった。  ひとりで近寄る勇気が持てず、信洋の腕をつかんだまま、扉の前に立って耳を澄ませた。  ベリーファーストのテンポで刻まれるベースの4ビート、彗星のごとく駆け抜けるトランペットのソロ。武と慎一郎が生み出した『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』――  防音扉を開け放つと、額に汗を流す武と、背をむけた慎一郎が立っていた――  ふりむいたのは小雪だった。ゆるいくせのある髪を後頭部の中ほどにまとめ上げている。譜面台には、小雪の手書きのコード譜と、例のベースのソロ譜が並べられていた。 「ああ、ごめん。もう全体練習はじまるかな?」  小雪は、武との演奏はなかったようなそぶりで身の回りのものを片づけ始めた。兄もふいと壁の方をむいてミネラルウォーターを飲み、他の曲を吹き始める。  信洋が訝しげな表情で様子をうかがってくるのがわかった。今、自分がどんな顔をしているのか、愛美はわからなかったが、この場の状況をただ鵜呑みにはできないと思った。  小雪が例の譜面に手をかけた。愛美は練習室にとびこみ、小雪の手から譜面を奪い取ると次の瞬間には破り捨ててしまった。 「だめだよ、こんなの」  愛美の行動に理屈はなかった。ただ、慎一郎が作ったソロを慎一郎のベースで弾く小雪の姿など、二度と見たくないと思った。信洋は破られた譜面を一瞥したあと、「マナ」と低い声で言った。兄はふりむいただけだった。小雪は――床を見つめるばかりだった。  小雪はきっと、兄の言うことには反発できない。オリエンテのウッドベースを貸してやると言われればそれに従い、ハウハイのベースソロをやれと言われたからそうしただけのことだ。だったらぶち壊すのは自分しかいないじゃないか、と愛美は心を決めた。 「私、追悼セッションには出ないから」  武は破られた譜面を拾いあげて目を細めていたが、静かにこうつぶやいた。 「おまえの好きにすればいい」 「小雪も出させたりしないから」  愛美はこぶしを握りしめて言った。ななめうしろに立っていた信洋に「ノブからも言ってやってよ」としがみついて体を揺らしたが、彼は首をふるだけだった。 「それはユキコが決めることだ」  兄はそう言うと、再びくちびるを舐めてトランペットを構えた。  耐え難い憤りが体の奥から吹き出してきて、長兄が愛用している金メッキのトランペットを叩き壊してやろうかと思った瞬間―― 「あーら、なんだか修羅場っぽい?」  とぼけた言い方をして通路に立っていたのは、小雪の姉、荻野紗弥だった。
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