4.愛美の章 巻時計

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「紗弥ちゃん、どうしたの」  最初に声を上げたのは小雪だった。心底驚いたという顔をして、かけよって行く。 「どうって、六時からビッグバンドの練習が入ってるの、言ってなかった?」 「なんにも聞いてないよ」 「まあ、あんたにいちいち言っても仕方がないわね」 「またそういう言い方する。ていうか、いつから練習なんてしてたの?」  狭い練習室にいる他の人間を取り残して、小雪と紗弥の会話が始まった。姉妹の他愛のない雑談のおかげで、武に集中していた殺気がそがれていく。  トランペットケースの上に置かれた無残な譜面を見ながら、ごめんねシン兄、と心の中でつぶやいた。  姉妹の会話はまだ続いている。どうやら今度は信洋を巻きこんで、恋愛トークに移行しているらしい。紗弥よりも背の高い信洋が、ずいぶん縮こまって見えた。  紗弥は仕事帰りらしく、スーツ姿でテナーサックスのケースを下げている。この姉妹の顔立ちが全く似ていない理由は、ずいぶん前に小雪から聞かされている。 「紗弥さんが練習にくるなんてめずらしいね」  出会ってすぐの頃、友人の姉に敬語なんて必要ない、と一喝されてしまい、くだけた話し方をさせてもらっている。彼女は銀縁の眼鏡をこちらにむけると、小さなため息をついた。 「まあね。参加しないわけにもいかないし」 「部員の誰かの結婚式、とか?」 「え? あ、まあ。そういうこと」  一瞬、紗弥の目が見開かれた気がしたが、またすぐに遠い目に戻って部屋の奥に入った。  トランペットを構えたままの武は紗弥の姿をちらりと横目で見ただけで、声もかけない。  紗弥は破れた譜面を見ながら、「あーらま。派手にやっちゃったのね」と言った。鋭い彼女のことだから、元の持ち主が誰なのかはすぐに読み取ったに違いない。  愛美は思わず身を固くしたが、紗弥は「マナちゃん、やるぅ」と言って指でつついてきた。  目を丸くしていると、紗弥はにやりと笑って言った。 「小雪と信洋くんにはこんな大胆なこと出来ないものね」  それから武をジロリと睨んで続けた。 「またあんたが身勝手なこと言いだしたんでしょ。こんな譜面引きずりだしてきて、うちの妹を人身御供にでもする気? まったく冗談じゃない」  紗弥は口早にそう言ったあと、兄の肩を拳で叩いた。彼の体がほんの少し揺れたが、慣れた様子で口からマウスピースを離そうともしない。 「マナちゃん、ありがとね」  紗弥の小さな手が、愛美の肩に乗った。眼鏡の奥の瞳がゆるやかな曲線を描いている。ほっと気持ちが緩むと共に、彼女の言葉が何度も頭の中を行き来した。  紗弥は楽器ケースを長椅子に置くと、今から全体練習でしょ、若い者は行った行った」と急き立て始めた。  愛美、小雪、信洋の三人を練習室から追い出したあと、ガチャリと扉を閉めてしまった。  今、あの狭い空間には兄と紗弥の二人きりなのに、男女の事が起こるとは、到底思えない。そう考えると、巻時計の下にダッフルコートが置かれていたくらいで、くだらない妄想を働かせてしまった自分がばからしくも思えてきた。 「ねえ小雪、今朝、タケ兄の部屋に行った?」  五号室に入る前に思い切って聞いてみた。ベースを持ち上げようとしていた小雪の体が、ほんの少し揺れた。すぐ前には信洋がいる。スティックを握って入室しようとしていたが、歩みを止めた。彼には残酷なことかもしれないが、疑惑を抱いたまま練習を始めるなんてできない。 「私、見ちゃったの。小雪の靴と服」  小雪は足元を見下ろした。白のロングニットに紺色のスキニーパンツを合わせ、あのフリンジブーツをはいていた。
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