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「ユキコ、すっげえ頭」
黒のVネックセーターを着た武が、白熱灯のオレンジ色の光を浴びて笑っている。漏れ出してきた温かい空気に、心がゆるみそうになる。
小雪は全身についた雪を払い落とすと、ベースを抱えて店内に入った。武がまたトランペットを構えようとしたので、距離をつめる。
「タケ兄、携帯見てないの? 今日ベースを乗せてくれるって言ってたよね?」
「彼氏に乗っけてもらえよ」
「ノブはインフルエンザで病欠だって、昨日連絡したじゃない」
「そうだっけ。じゃあタクシーでも拾えば」
「この雪で長蛇の列」
武相手にこれ以上の押し問答は無駄だとわかっている。けれど相手にされなかった悔しさをどこへぶつければいいかわからない。言えば言うほど情けなくなってくる。
ベースを寝かせて腕を揉んでいると、キャメル色のコートを着た有川愛美が入店してきた。
「どうしたの、もしかして駅から歩いてきたの?」
「マナ、あとで話聞いて」
そう言ってコートを脱ごうとすると、背負っていたリュックを外してくれた。ピアニストの愛美はトートバッグひとつという身軽さで、武を睨みあげる。
「お兄ちゃん、また電源切ってたんでしょ」
そう言われて武が重い腰を上げる。客席からファーのついたミリタリーコートを拾いあげてポケットを探った。
「そういや昨日の夕方から切ったままだったかな」
すっとぼけた調子で言われ、小雪は脱力した。彼は女性と会っているときは携帯電話の電源を切る。小雪といるときは鳴っても応答しない。知っていても無駄な想像力が働いて、彼がどんな女性といたのかと考えてしまう。
ベースをソフトケースから取り出して、痛んでいる部分がないか点検した。水滴はケースの中までは染みこんでおらず、こげ茶色のつややかなボディにも異常はなかった。
ほっと一息ついてステージの隅にベースを寝かせる。じきにリハーサルが始まる。かじかんで真っ赤になった指を温めようと、息を吐きかけた。
頬に熱を感じて体を引くと、真横に立っていた武が小雪の長い髪をなでた。
「雪、まだついてる」
長身の彼は見下ろしながらそう言って、小雪に使い捨てカイロを握らせた。
「持ってろ、先に綿谷さんとやっとくから」
トランペットのツバ抜きを空けて菅の中にたまった水滴を落すと、キッチンにむかって声を上げた。
緑のスクエア型の眼鏡をかけた綿谷が、サロンで手をふきながら姿を見せる。
「はいはい、お呼びですか」
今年28になる彼はひとりでこの店を切り盛りしている。2つ下の武とは中学時代からの先輩後輩で、病欠した信洋の代打を頼んだときは快く引き受けてくれた。
綿谷はサロンをたたんでケヤキの一枚板のテーブルに置いた。
「さあ、何からやるのかな?」
「もちろん、爆速ブラックバード」
店名の元となった『バイ・バイ・ブラックバード』は、本来はミディアムテンポの4ビートだ。少し気だるげに歌うスタンダードとは違って、彼らは恐ろしく速いテンポで演奏することを好む。前回のライブで大失態を冒した武は去り際に「もうあんなのやるか」とぼやいていた。そのことを知っている綿谷は意地悪そうな瞳で武を見つめる。
「封印したんじゃなかったの?」
「今やっとかないと、どっちかがのたれ死んだら後悔するでしょ」
武がそう言うと、床に置いたスティックケースを探りながら綿谷が頭を上げる。
「どっちかっていうと、僕の方が先だね」
「年なんて関係ないっすよ」
武はくちびるを一舐めすると、マウスピースに口をつけて息を吹きこんだ。綿谷はブラシでスネアドラムをなでてから薄く笑う。
白いグランドピアノの前で待機していた愛美が身を乗り出した。
「ブラックバードなんて用意してないよ。コード譜、見せて」
「ピアノはいらない、ベースも」
武はそう言うと、素早く右手の指を動かしてピストンを上下させた。
ふくれっ面をした愛美が小雪の隣に座る。気まぐれな兄にふりまわされる妹の気持ちが、肩越しに伝わってくる。このライブのために万全の準備をしてきたのに、用意していない曲を上げられてその上いらないと言われれば誰でも腹が立つ。
けれど同時に、ドラム&トランペットの編成に書き換えられたあの演奏が聞けると思うと、胸の高鳴りは抑えられない。
この店が開店した五年前、あの時は隣に有川慎一郎が座っていた。小雪が弾いているオリエンテのウッドベースも、まだ彼が所有していた頃だ。
綿谷がバスドラムを二回踏んでブラシを握る。小雪はあわててリュックを探ってジャズのスタンダード曲集を取り出す。
カウントが始まると、武は顔を上げてトランペットを構えた。ライオンのように逆立てた黒髪が揺れ、頬の肉が引きしまる。
ベリーファーストテンポの『バイ・バイ・ブラックバード』が始まった。
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