5.信洋の章 隔壁

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 四十分ほど車を走らせ、信洋たちは住宅街の中に車を停車させた。この駐車場のすぐそばになじみの楽器店があると聞かされているが、信洋が来るのは初めてだった。  後部の扉を開けてベースを取りだそうとしたが、小雪に静止させられてしまった。   こういうとき、彼女に潜む何かとのどうしようもない隔たりを感じる。  搬入や搬出の際、自分が所有する楽器を運んでもらうことは頻繁にある。けれど小雪はその行為の一切を拒んでいる。その理由が信洋にはわからないでいた。                 ***  冬の夜風から身をかくすように、島田弦楽器工房はたたずんでいた。  信洋が雑居ビル一階の引き戸をゆっくりと開けると、その動きに合わせて小雪はベースを中に入れた。 「やあ。よくきたね」  奥からしゃがれた男性の声が聞こえた。小雪がゆっくりとマフラーをはずす。うしろからついて入った信洋は、思わず息を飲んだ。  部屋のすき間を埋め尽くすように何十台もの巨大なウッドベースが立っていた。青いソファのようなスタンドの上に並べられた無数のベースは意志を持った生き物のようにこちらを向いている。  弦楽器に疎い信洋でも、ベースそれぞれに個性があり、本体の色だけでなく、弾けば違う音がなることが容易に想像できる。  かぎなれない、けれどよく知っている匂いが狭い工房内に立ち込めている。ベースを弾いたあとの小雪の指からする、あの松脂(まつやに)の香りだ。  小雪のベースは、もともとオーケストラのベース奏者が使用していたらしく弓がついている。彼女が演奏で使うことはまずないが、手入れのためにときどき松脂を塗っている。  初めて彼女の手を握ったとき「松脂がついてるから」と拒まれたことを思い出した。それ以来、松脂の匂いを嗅ぐと、彼女の細く白い指が思い浮かぶ。  小雪がベースを寝かせると、楽器の林の奥からエプロン姿の男性が姿を現した。顎ひげをこすったあと、レンズの曇った眼鏡を押し上げて小雪のベースに歩みよる。 「すみません、こんな遅い時間に」  小雪がソフトケースのファスナーを下げると、初老の男性は腰のあたりを叩いて重そうな上体を起こした。 「今の時期は調子が狂いやすいからね、ご老体にはきついだろうと気になっていたんだ」  そう言いながら労わるようにボディをなでた。皺だらけの節だった指が弦をはじき、細部をチェックし始める。 「君が所有するようになってからよくリペアに来てくれるから助かるよ」  彼が目を細めてそう言うと、小雪は「いえ、私なんかが」と言ってうつむいた。  たしかに室内に並べられたベースに比べると、ネックのあたりに傷が多く、本体も削れている部分がある。このベースは小雪が一回生の頃から使っていると聞いているが、所有に至った経緯は知らない。そもそもクラシック音楽に使われていたベースがジャズプレイヤーのもとにやってくるなんて、そのこと自体が信洋には不思議だった。 「あの……このベースってそんなに古いものなんですか?」  信洋はそろりと声を出していった。男性は曇りガラスのむこうから信洋の姿をみとめると、口元に皺を寄せて言った。 「これはね、私が駆け出しのリペアラーだった頃にこの手で旅立たせたものなんだ。一度は行方知れずになったのだけれど、晴樹くんが見つけ出してリペアに持ってきてくれた時は本当に感慨深かった」 「晴樹……さん?」  信洋がそうつぶやくと、小雪はソフトケースをたたみながら言った。 「マナのお父さんよ。古い楽器店に眠っていたのを偶然見つけて、リペアに出したって聞いてるけど」 「マナの親父さんが、前の所有者ってこと?」 「えっとそれは……」  小雪が言葉を濁した。  リペアラーの男性は、ずり落ちていた眼鏡を上げて小雪を見つめた。信洋は彼女の様子をつぶさに見る。うつむいて髪に顔がかくれたが、くちびるを噛むのがわかった。それからゆっくりと息を吸う。
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