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雪のせいか、本番になっても客足は鈍かった。
武の会社の同僚だという女性陣がいつものようにベース近くの席を陣取っている。顔ぶれはその時々によって違うが、栗色の髪をゆるく巻いた女性は高確率で参加している。武が彼女たちと会話をすると、時おり親密な空気が漂ってくる。
小雪はベースラインを弾きながら、彼女たちを見る。
栗色の髪の女性が熱心に武を見上げているが、彼はどこ吹く風で『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』のソロを吹いている。
綿谷のドラムの調子が強くなり、あわてて意識を集中させた。裏拍のタイミングが少しずれている。ハイハットとスネアドラムの音をよく聴いて寄り添うように合わせていく。
信洋と演奏しているときにはない緊張感が、店内の空気を張りつめたものに変えていった。
ピアノの音色が低音からじりじりと上がり、トランペットの複雑なフレーズに絡みついてく。他人同士だったら嫉妬してしまいそうなほど熱い視線を交わしながら、武と愛美のソロは四小節ずつ繰り返され、エンドロールへ向かう。
綿谷がクラッシュシンバルとライドシンバルを交互に叩きながら演奏をあおっていく。
小雪はランニングベースが走りすぎないように脳に制御をかける。愛美の短くて可愛らしい指が鍵盤をなでながら落下していく。
天井を突き破ってしまいそうなトランペットのハイノートが心臓をひねりあげ、体の芯を揺さぶる高音に我を失わないように唇を結ぶ。
武は首の両側にある頸動脈を浮き立たせて頂点まで登りつめていく。
高々と振りかざされた金メッキのトランペットが空を切ると、全員がタイミングをとって最後の音を鳴らした。
客席から拍手が起こり、小雪は肩の力を抜いた。武が手をあげると部員たちが指笛を鳴らす。
彼はツバ抜きを空け、アンコールを待たずにトランペットを構えた。
ブラシを握った綿谷のカウントで『バイ・バイ・ブラックバード』が始まった。小雪はベースを支えて立ったまま、武の横顔を見つめる。
縫い針の穴に細い糸を通すように、正確なピッチを狙って息が吹きこまれ、寄せられた頬の筋肉が引き締まる。ピストンは目まぐるしく上下し、息つぎのタイミングがわからないくらい、トランペットの音色は途切れることなく紡がれていく。
小雪は食い入るように彼の姿を見つめる。胸が苦しくなり呼吸を忘れていたことに気づく。
最後の一音を吹ききると、武のとがった顎に汗がしたたり落ちた。
観客たちは両腕を上げて手を叩き、彼は手の甲で上唇をぬぐってそれに応える。いつまでたっても追いつけない広い背中がゆっくりと隆起した。
演奏直後しか見られない力の抜けた微笑みが、彼の頬に浮かんでいた。
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