95人が本棚に入れています
本棚に追加
帰り支度をしていると、茶封筒を持った綿谷が武の肩を叩いて言った。
「はい、お疲れ様」
ハードケースを空けてトランペットをしまおうとしていた武は、わずかに顔を上げた。
「いらない。ぜんっぜん客入ってないし」
「もらってくれないと、困るんだけどなあ」
綿谷がやれやれと言わんばかりの顔で肩を落とす。封筒が行き場を失っている。武は指先で顎をなでながら、黙っている。
「じゃあ」
綿谷の手からすばやく茶封筒を抜き取ると、ベースにソフトケースをかぶせていた小雪に突きつけて言った。
「今日の交通費」
手を止めて彼を見た。首筋に演奏の名残が浮き立っている。
帰りは彼の車にベースを積んでもらえるかもしれないと淡い期待を抱いていたが、目の前にさし出されたギャラが「電車に乗って帰れ」と語っているようだった。彼が手を引っ込める気配は全くない。
小雪はソフトケースをしっかり締め上げたあと、渋々受け取った。
さっさと帰ろうと思いリュックのポケットを探ると、冷えたカイロが入っていた。それはそのままにして、パスケースを取り出す。
客席で待っていた愛美に声をかけてベースを担ぎ上げると、武はミリタリーコートをすばやく羽織って言った。
「待ってろ。車、まわしてくるから」
小雪が返事をするまもなく、彼は扉を押しあけた。熱気が充満する店内に、夜
の冷たい風が吹きこんでくる。
愛美があわてて「私も送ってってよー」とかけよると、武はふりむかずに「はいはい」と気のない返事をして店の外に出た。
気合を入れて持ち上げたベースが宙に浮いたままだ。
サロンをつけて店内の後片付けを始めた綿谷に「よかったね、小雪ちゃん」と声をかけられて我に返った。
ベースを再び床に寝かせると、綿谷に合わせて食器を下げるのを手伝った。愛美もトートバックを置いて彼の指示を仰ぐ。
うつむいてテーブルを拭きながら、心臓がずくずくと痛んだ。必死になってかき消そうとテーブルの汚れをこする。
期待はしない。ウッドベースを積んで帰る、それだけのことだと自分に言い聞かせた。
最初のコメントを投稿しよう!