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有川家の前で愛美を下ろし、小雪の自宅に向かって車が走り出したのは23時頃だった。後部座席につんだウッドベースの横に身を縮めて座っていた小雪は、運転席から伸びる武の手招きに気づき、助手席に移動した。
雪はやんだものの、雪の塊が夜の街を覆っている。武は普段よりも慎重にハンドルを切っている。車内にはトランペットとテナーサックスのソロが流れている。
手の中で携帯電話が振動した。緑色のランプが光っていたが、返信せずにふせた。
「また光ってるけど。ノブ?」
赤信号でブレーキを踏んだ武が携帯電話に視線を送る。そう、とこたえて画面を手のひらで覆った。車がゆっくりと動き出す。
「なんて?」
「次こそは武さんと一緒にやりたいって言ってる」
対向車線を走る車のヘッドライトが武の横顔を照らし出す。アート・ブレイキー・ジャズ・メッセンジャーズの『モーニン』が流れ始める。
「この曲やりたいから、紗弥つれてきて」
「そんなの無理だよ。紗弥ちゃん、もうコンボはやらないって言ってたもん」
調剤薬局に勤める姉の紗弥は、武とは同期生だ。今では結婚式や同窓会の場でテナーサックスを吹く程度で、ギャラの出るライブに立つことはほとんどない。
武とは対極的に目立つことを好まない紗弥を、何度もフロントとしてひきずり出した話は嫌になるほど聞いている。
「じゃあノブに説得させればいいだろ。紗弥を引っぱってこないなら、次はないから」
「ノブが紗弥ちゃんを口説けるわけないの、わかって言ってるでしょ」
愚痴るようにつぶやいて、携帯電話の画面を指で叩く。メッセージを送信すると、すぐさま信洋から返事があった。ベッドの中で退屈しているのが伝わってきて、げんなりする。
ランプが緑色に光るのを見ながら、リュックの中に携帯電話を放り込んだ。
「返信しなくていいのか」
「だって返事したらまた送ってくるから」
彼は肩を動かして大げさに息を吐き出した。
「そんな面倒くさいこと、よく続けられるな」
「仕方ないじゃない、無視するわけにもいかないんだから」
武の視線がちらりと小雪にむけられる。
「今はいいのか」
「寝落ちしたってことにしておくよ」
助手席のシートに深くもたれて息をついた。
窓の外を見る。見慣れたチェーン店の看板がいくつも流れていく。外灯や店舗の光、前後を走る車のフロントライトが無機質なコンクリート道を淡く照らし出す。
「うち、よってく?」
分岐点の手前で、正面を見たまま武は言った。心臓が強く打ち出そうとするのを感じながら、小雪はうなずいた。
「おなかすいたな」
「晩飯食ってなかったな。なんか買ってくか」
武は大きくハンドルを切って分岐点の手前にあるコンビニの駐車場に車をすべりこませた。小雪と二人のときに目の前にあるファミレスや深夜営業のカフェに入ることはない。
パスタやサラダを買い込んで車に戻ると、彼はミリタリーコートのポケットから携帯電話を取り出した。さっと画面を見ただけで、通話も返信もしない。
エンジンをかけてハンドルを握ったが、着信音が鳴りだした。ふう、と息を吐いて武は応答する。
「うん、今帰り。ごめん、今、運転中だから。じゃあ」
途切れながらそう言って、一分たたずに通話を終了した。エンジン音で相手の声は聞こえなかったが、会話の流れから電話のむこうにいる人物は武が今ライブ帰りだということを知っているように思えた。
武と目が合って、食い入るように彼の様子を伺っていたことに気づく。
意識をそらそうとフロントガラスの向こうに視線を送ったが、耳の奥で鳴る鼓動はなかなか静まらなかった。
車はゆっくりと動き出す。ここから15分も走れば、武が一人暮らしをしているアパートの一室に着くだろう。彼の部屋に入るのは半年ぶりのことだ。
期待は無駄に終わるはずだと、頭の中で念仏のように唱えた。並んでテレビを見ながら遅い夕食を取り、それからまた自宅まで送ってもらう。
その程度のことなら信洋との関係がぶれたりしないはずだ。
リュックの中を探って携帯電話を握りしめる。また振動している。けれど武のように電源を切る勇気はない。万が一、ひとつのベッドの中で寝ることになっても、緑のランプは光り続けているのだろう。
それでも同じ明日を迎えることができるのだろうかと、気だるいトランペットの音色を聞きながら考えた。
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