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2.小雪の章 交錯
翌朝、武の車で自宅近くまで送ってもらった小雪は、音をたてないように玄関の鍵を開けた。築四十年の木造住宅は戸口が狭く、ウッドベースを運び込むのにいつも苦労する。
抜き足差し足で土間に入ったものの、高さが二十センチもある上り框にエンドピンをひっかけてしまい、その拍子に声を上げてしまった。
冷や汗をおさめるために静止していると、暗い廊下の向こうから紗弥が顔をのぞかせた。
「ベースを抱えて朝帰りとは、学生は気楽なもんね」
白のコットンシャツに濃紺のストレートパンツをはいた紗弥が、髪を結わえている。肩甲骨のあたりまで伸びた黒くまっすぐな髪が、ゆるやかにまとめられていく。
生まれた時から薄茶色でくせのある髪を持つ小雪は、紗弥の髪を何度うらやんだかわからない。両親は連れ子同士の再婚なので、紗弥と小雪に血のつながりはない。
聡明でさっぱりとした性格の紗弥に憧れ、彼女のようになりたいと願いながら成長してきた。
「どうだったの、昨日のライブ」
ウッドベースを抱えて二階に上がろうとすると、歯ブラシを片手に持った紗弥が尋ねてきた。
「すごかった。タケ兄が紗弥ちゃんと『モーニン』やりたいって言ってたよ」
それとなく話をふってみると、歯磨き粉を泡立てた紗弥が苦々しい顔をした。
「いやよ。あいつわがままだし、こっちの要求を全然聞かないからイライラすんの」
「紗弥ちゃんを連れてこないと、次はないって」
「そりゃどうも残念様でした」
他人事のようにそう言うと、また洗面所にひっこんだ。
小雪はため息をついた。現役時代でさえ簡単にイエスと言わなかった紗弥を何故またライブに引っ張り出そうとしているのか、武の魂胆がわからなかった。
自室にベースを押しこんで階下に戻ると、銀縁眼鏡をかけてグレーのロングコートをはおった紗弥が靴を履いていた。
「あんた昨日、どうやってベースを運んだの?」
「電車だけど」
「行きも帰りも?」
「そう。終電に間に合わなかったから、友達の家に泊めてもらって電車で帰ってきた」
「マナちゃんち?」
「違うけど」
「ウッドベースなんか入れてくれる奇特な友達が都合よくいたもんね」
紗弥は時々、核心をつきながら遠回しに言葉で攻めてくる。男の車に乗せてもらって、泊まったついでに寝てきたのではないか、と言いたいのだ。
小雪が答えないでいると、紗弥はすっくと立ち上がって言った。
「今帰ったってお母さんにメールしときなさいよ。それからお父さんにも」
「ええーお父さんにも?」
大手の製薬会社に勤務する父は、小雪の実の父親だ。
小雪の生みの母が病死した後、薬剤師をしていた紗弥の母親と職場で知り合い、再婚に至ったそうだ。義母は今でも調剤薬局でのパート勤めをしている。
「あんたが外泊したときのお父さんのうろたえようと言ったら、ほんとひどいのよ。動画に残して見せたいくらいだわ。ちゃんと安心させてあげなさい」
紗弥は母親のように言って、家を出た。愛用の軽自動車に乗りこむのを見て、自分も早く運転免許を取らなくてはと思った。
教習所に行かせてと気軽に言えるほど、家の経済状況がよくないことは承知している。
紗弥もアルバイトをしてためたお金で教習所に通った。社会人になってから車も購入した。せめて運転免許だけでもと思うが、ウッドベースを買う費用も別に必要だった。
ため息をつき、ダイニングテーブルの上に置かれていたパンを取って、自室に戻った。
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