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大晦日の夜、待ち合わせ時刻の前に駅の改札口を通ると、信洋の大きな背中が見えた。
小雪の姿に気づく様子がなかったので、肩をつついてみた。ブラウンのダウンジャケットが音を鳴らし、短く切りそろえられた頭が動いた。
「小雪が予定より早く着くなんて、めずらしいね」
「ノブがいつも早すぎなの」
信洋の手を引いて歩き出すと、彼もそれに従って歩き出した。
一緒に年越ししようと誘われたものの、あまり乗り気ではなかった。年末年始はアルバイトをしているファミリーレストランが立て込む時期で、六日連続の出勤も珍しくない。
できれば家で寝ていたい、しかしこれ以上誘いを断れない。
付き合ってまだ半年も経っていないのに、信洋に対するときめきは早くも枯渇していた。
一緒にいて気持ちは安らぐけれど、武と対面しているときの胸を締め上げるような痛みを感じたことはない。
まだ日付が変わるまで時間がある。石の塊のようになった足を休ませたくて、近くにあった喫茶店にかけこんだ。
23時を過ぎているのに、店内は年明けを待つ客でごった返していた。20分近く待った末にようやく待ち合い席がひとつ空く。
左腕にだるさを感じて肩を回していると、隣に立つ信洋がもみほぐしてくれた。首筋にたまった緊張がゆっくりとほどけていく。
高校時代は柔道部に所属し、背は低いが分厚い胸板と太い腕を持っている信洋はマッサージがうまい。学科ではスポーツ医学を専攻しているらしく、整体師として開業できるのではないかと、小雪は勝手に思っている。
彼は一年浪人しているので同じ三回生でも年は小雪より一つ上だ。誰にでも柔和で親切な彼は、年上だということを感じさせない。
ようやく客席に座ってミルクティーを注文すると、疲労と眠気が急激に襲ってきた。
「ごめんな、バイトのあとなのに呼び出しちゃって」
信洋といると、家で過ごしているときのようにリラックスしている自分に気づく。くしゃみをすれば風邪かと心配してくれるし、疲れたと言えばと労わってくれる。自分が信洋にしてやれることなど何もないのに、彼はいつも無条件の優しさを分けてくれる。
真っ黒の短い前髪と太い眉毛を見ながら、おにぎりのようだと思った。おなかが空いているときに食べるとホッとする。冷えた心をゆっくりと温めてくれる。とがっていた気持ちが自然と優しく丸くなれる。
「こっちこそごめんね、ろくに返信できなくて」
「いいよ、バイトで忙しいんだろ。今日会う約束をしておかないと、年明けに授業が始まるまで会えないんじゃないかと思って、焦ってたんだ」
そう言って眉を下げて、小雪の手を取った。大きく色黒な手から熱が伝わってくる。
テーブルの真横に店員が立つと、信洋の手がさりげなく引っこんだ。
節の太い指がミルクピッチャーを取って、カップの中にミルクを流し入れる。銀色のティースプーンでかきまぜてから、小雪にさし出してくれる。
数回のデートで小雪の好みの味を覚えた信洋は、どこに行っても同じ調子でミルクを注ぐ。席に着けばおしぼりの封を空け、和食のときは割りばしまで割ってさし出してくれる。
初めの頃は落ち着かない感じがして断ることもあったが、信洋の動作があまりに自然なのでいつの間にか慣れてしまった。
武といるときは幾度も強烈な自己嫌悪が襲ってくるのに、信洋と過ごす時の自分はそう悪いものではないと思わせてくれる。
「武さんが言ってたアート・ブレイキーの『モーニン』のことだけど」
心の隅に巣食う武の幻影を追い出そうとしていると、信洋がブラックのコーヒーに口をつけて言った。「タケ兄」ではなく、トランぺッター有川武の姿に頭を切り替えていく。
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