2.小雪の章 交錯

4/5

95人が本棚に入れています
本棚に追加
/79ページ
「あの曲、俺もやりたいんだよね。武さんが何気なく吹いてたからこっそり合わせていったことがあるんだけど、もう鳥肌ものだった。なんとか小雪のお姉さんを説得できないかな」 「私には無理。あっさりあしらわれたもん」 「そこをなんとか」 「じゃあノブが頼んでよ。紗弥ちゃん、ノブのこと結構気に入ってるみたいだから」  平伏するように頭を下げていた信洋が顔を上げた。驚きすぎているのか、口が変な恰好でへの字に曲がっている。 「嘘だろ。俺、ものすごくガン飛ばされてると思ったのに」 「いつもあんな感じだから気にしなくていいよ。実直そうな雰囲気がいいって言ってた。少なくとも今まで連れて行った中では一番、好評価……」  失言に気づいて語尾をごまかそうとしたが、別れた男の存在に気付いた信洋は、微笑みながら傷ついていた。体は熊のように大きく湖のように広い心を持っていても、些細なことですぐ傷つく繊細さも備えている。 「俺なんかにあの人を説得できるのかなあ……」  弱気になった信洋をからかいたい気持ちが湧いてきて、「ファイト、ノーブ」と言うと、彼は突然、真剣な面持ちになって言った。 「小雪は武さんとやりたいと思わないの?」  思わぬ言葉にミルクティーを飲む手を止めた。店内のざわめきが体内に侵入して心臓をかき乱していく。すぐ隣で寝息を立てている武の顔が眼前にちらつく。 「そりゃあやりたいけど」  声が震えそうになるのをこらえてそう言った。カップを握る指先から感覚が遠のいていく。うっかりこぼしてしまわないように、慎重にソーサーの上に乗せる。 「だったらもう少し真剣に対策を考えてくれよ」  受験勉強の傾向と対策みたいな調子で言い始めたので、何だかおかしくなって吹き出してしまった。信洋は指で頬をかいている。 「どうして笑うかなあ」 「どうせいつもの気まぐれなんだから、『モーニン』への気持ちが醒めるまで待った方が早いと思うよ。はなからやる気のない紗弥ちゃんを口説くなんて、難攻不落の城に真正面から突っ込むのと同じだもの」 「なるほど」  妙に納得した顔でつぶやくと、信洋はコーヒーをすすり上げた。 「じゃあ武さんに吹いてもらうには、俺たちはどうすればいいと思う?」 「ハウハイの演奏レベルをもっと高めることじゃないかな。あの曲はこれからもずっとやりたがると思う。近いうちに」  追悼セッションの話をしかけたが、咄嗟に言葉を切り落とした。信洋がどんぐり眼をさらに丸くさせて言葉を待っている。 「近いうちにまたやりたいって言ってくると思うよ」  不自然にならないように言葉を繕って微笑んだ。彼は頭の中にメモをするような表情で「なるほど、ハウハイね」とつぶやく。  愛美や武との付き合いが短い信洋も、小雪を含む当人たちがある事実を言わないようにしていると気づく日が来るだろう。いずれそのことを告げるのは、有川家の面々であってほしいとどこかで願っていた。  たとえオリエンテのウッドベースが目の前にあっても、慎一郎のことをうまく話せる自信はなかった。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!

95人が本棚に入れています
本棚に追加