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1.小雪の章 積雪
降りしきる雪の中を、小雪はウッドベースを抱えて走る。
年の瀬の駅前は行き交う人々でごった返していた。木々にぶら下がったイルミネーションが淡い光を灯し、誰に見られることもないまま夕暮れ時の空を彩っている。
歩道に溶けた雪が残っていた。180cmあるベースの死角を見知らぬ人たちが通りすぎ、濡れた道に足を取られないよう慎重に歩いていく。
喉に冷気が張りついてうまく呼吸ができない上、毛糸の手袋は濡れて重くなっていた。鼻と耳はちぎれそうなほどに冷え、指先の感覚がない。なんとか店の軒下に入ると、ベースを下ろして呼吸を整えた。
皮膚は氷のように冷たいのに、Pコートをはおった服の下から汗がふき出してくる。
役に立たなくなった手袋をはずしてポケットにつっこんだ。反対のポケットから携帯電話を取り出してみるが着信履歴はない。武に送ったメッセージは既読にもならない。
そもそも彼からリアルタイムで返信があったことなど、一度もない。いつも忘れた頃にぽつっと短い言葉を送ってくるのだ。
凍える手でもう一度かけてみたが、留守番電話サービスにつながった。
ため息をついて通話終了ボタンを押すと、電子音が軽やかに鳴った。かぶりつくように画面を見たが、表示されたのは信洋からのメッセージだった。
――今日はほんとゴメン。もう着いた?
ぺこぺこと頭を下げているパンダのイラストに苛立ちを感じ、「まだ」とだけ打って携帯電話をポケットにつっこんだ。
ソフトケースについた雪を払い落とし、ベースを担ぎ上げる。
勢いを増した雪が視界を遮る。汗をかいたせいか、ますます体が冷えてくる。ベースごとひっくり返らないように、慎重に雪を踏みしめて歩いていく。急がなければもうじきリハーサルが始まる。
ライブハウスまでの歩きなれた道のりが、二時間にも三時間にも感じられた。
***
雑居ビルの地下一階にあるジャズ喫茶『ブラックバード』にたどり着くころには汗だくになっていた。滑らないように用心しながらタイル張りの階段を下りていく。
木製のドアのむこうから、トランペットの音色が聞こえてきた。
ゆったりとしたテンポで『アイ・リメンバー・クリフォード・ブラウン』を吹いているのは、武に違いなかった。
怒りではち切れそうになっていた胸が、心地よい音色に溶かされていく。
雪の中、徒歩でベースを運ぶはめになった恨みつらみまで消えそうになって、頭をふった。汗をふいてドアを押し開ける。
カウンター席に腰をかけて金メッキのトランペットを吹いていた有川武がふりむいた。
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