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4.愛美の章 巻時計
翌日の昼頃、愛美は武が住んでいるアパートの前に立っていた。前日の夜、ケンカ別れした兄は実家に携帯電話を忘れていった。取りにこさせればいいのに、そもそも連絡がとれないし手元にないと仕事も不便なことだろうと言って、母が愛美を使いに出したのだ。
お母さんが行けばいいのに、と一応反抗してみたが、お母さんは町内会の集まりがあって忙しいの、と一蹴されてしまった。
専業主婦の母がどれくらい多忙なのかは不明だったが、ひとりであの家にこもっているよりは、町内会のことで忙しくしているほうがいい。
前日のみぞれが嘘のように、よく晴れた暖かい日だった。平日のせいか、単身者向けの築浅のアパートには人気がない。
兄は父が経営するアパレル会社に勤めている。数年おきに店舗をうつりながら営業にも出ているらしい。家族には無愛想な顔しか見せないが、整った面立ちも手伝って、時おり垣間見せる笑顔が年上女性にはウケがいいそうだ。
一度だけ偶然、店先に立つ武の姿を見たことがある。普段のぶっきらぼうな話し方が嘘のように、饒舌な営業トークを繰り出していた。いかにもガードが高そうな三十前後の女性が、言われるままに次々と服を試着しているようだった。
高々とトランペットを吹き鳴らしている兄とは、別人としか思えなかった。
一人暮らしを始めてから武はすっかり痩せてしまって、全身にまとっていた鋼のようなオーラも消失した。変わってしまった、というよりは、兄が意図して変わろうとしているように思えた。
真新しいインターフォンを押してみた。仕事が休みで家にいるはずだが、応答がない。
しばらく待ってから、合い鍵を取りだした。出かけに母から預かったものだ。本当はこんなもの使いたくないが、ポストに携帯電話を落すのにもためらいがある。
もう一度、部屋番号を確認したあと、「入るよー」と声をあげて鍵をさしこんだ。
鍵をひねった瞬間、ドアノブが縦になって玄関扉が開いた。
「……なんでおまえが鍵をもってるんだ」
寝起きだったのか、髪が乱れている。皺のついたカットソーからは、寝汗のにおいがたちこめていた。
「いるんなら出てよ。携帯電話、お母さんに持っていけって言われたの」
愛美が携帯電話をさし出すと、彼は眠そうな顔で脇腹をかいてから、無言で受け取った。
それから手のひらを差し出す。鍵を渡せということらしい。
愛美が頬を膨らませて鍵を乗せると、兄は扉を閉めようとした。
「せっかく持ってきたんだから、ありがとうぐらい言ってよね」
「早く帰れよ」
妹を追い返そうとしている兄の様子にピンときて、愛美は沓脱を見た。予想通り女物の靴がある――それは見たことのあるフリンジ付きのショートブーツだった。
「……誰か来てるの?」
「わかってんならさっさと帰れ」
兄が腕に力をこめて、愛美を外に押し出した。彼の肩越しにせまいダイニングキッチンが見えた。壁に古い巻時計がかかっている。誰がぜんまいを巻くか、慎一郎と一緒になって取り合った祖父の時計――ぜんまいを握ったあとの錆っぽいにおいが呼び起される。
その真下に小さなダイニングテーブルが置かれている。ふと見たスツールの上にかけてあったのは、よく見知った人物のダッフルコートだった。
その瞬間、愛美の体から力が抜けて、玄関扉が閉まった。バランスを崩した愛美は共用廊下にしりもちをついた。見上げた扉の向こうから鍵のかかる音が聞こえる。
いつから来ているのか――寝起きの様子からすると、昨夜から? 愛美の誕生日パーティが終わったあのあとから、1DKの狭い部屋で?
いつから、そんなこと――
この場にいてはいけない気がした。あわてて階段をかけ下りた。体の末端がしびれるほどあらゆる思考が吹き出してきて、ふり払うようにして駅に向かって走った。
目の前ののどかな風景まで支配しようとするどす黒い妄想が勘違いであればいい――
愛美はウェーブのかかったセミロングの髪をふり乱しながら、寝癖頭の武を記憶から追い出そうとした。
大学に向かう電車に飛び乗ると、どくどくと鳴る心臓と共に、逆流しそうだった血液の流れが少しずつ落ちつきを取り戻していった。
ハウハイのソロ譜がほしいと言っていたから、取りに行っただけかもしれない。
そう思おう、そうでなくちゃ、と身を固くした途端、信洋の顔が思い浮かんだ。いつも小雪を追っているビー玉のような黒い瞳。あの目が、兄の部屋の光景を見ていたら――
誰かが愛美の肩を叩いた。ぎくりとしてふりかえると、首からヘッドフォンを下げた信洋が立っていた。現実なのか、勘違いの産物なのか、瞬時に判断できなかった。
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