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5.信洋の章 隔壁
武と紗弥が練習室にやってきたその日、小雪はかなり集中力を欠いていた。弦を押さえる指にも力が入らないのか、何度もミスタッチを繰り返した。
そんな小さな体で何もウッドベースを弾く必要なんてない、と信洋はこっそり思っていたが、口にしたことはない。指板を見つめる熱のこもった瞳に惹かれてやまないのも、隠しようのない事実だ。
いつもは口うるさい愛美も、言葉少なになっている。コンサートマスターとしての指示もホーンセクションに集中していて、信洋は淡々とドラムを叩き続けた。
武と紗弥の会話を、小雪はどこまで聞き取ったのだろう。信洋には断片的に「結婚」という言葉が聞こえた。OBたちが組んでいるビッグバンドは誰かの結婚式のためなのだろうか。
防音扉のすぐ横に立つ彼女の耳に、どんな言葉が届いていたのか結局聞くことはできなかった。
***
午後七時になり、武のビッグバンドと入れ替わった。せっかくだから綿谷のドラムを聞きたいと思っていたが、楽器店に行きたいと小雪に頼まれたため車を出すことにした。
十号棟の外に出ると、鼻先を切り裂きそうなほど冷たい風が吹いていた。夜空には目がくらむほどの月が輝いている。口元をマフラーで覆いかくした小雪が、ベースを担ぎながらゆるい坂道をゆっくり上ってくる。
出会ってすぐの頃はこの頼りない足取りを見るたびに手伝おうかと声をかけたものだが、小雪がかたくなに拒むのを見て、彼女の奥底に潜む得体のしれない意思を感じた。
いつものように小雪の主導で乗用車にベースを押しこむと、信洋は静かに車を発進させた。助手席に座った小雪が、ふうと息をついてマフラーをはずす。
「ごめんね。突然、楽器店に行きたいなんて言って」
作りたての雪だるまのように白い頬に、ほんのりと赤みがさしている。信洋は微笑みかえすと、住宅密集地の細い路地でゆっくりとハンドルを切った。
小雪のわがままはいつも、信洋の許容範囲に収まっている。愛美のように時には無茶を言ってくれた方が尽くし甲斐があるのに、小雪の頼み事は信洋の大学生活とアルバイトの予定を決して乱さないものだった。
後部座席に積んだウッドベースが揺れないように、慎重にアクセルを踏んだ。
「もっと頼ってくれたっていいのに」
「だって肝心なときにインフルエンザにかかるじゃない」
「それを言われるときっついなあ」
信洋が苦虫をかみつぶしたような顔でそう言うと、小雪はいたずらっぽく笑っていた。
少しは普段の調子を取り戻したらしい。彼女はトートバックを探ってのど飴を取りだすと、「もう風邪ひかないようにね」と言って信洋にさし出した。
「今、ハンドル離すとやばいかも」
暗闇の中に沈む前方の道路を睨みながら言うと、袋を破るカサカサとした音が聞こえた。
ふと小雪を見ると、指先に飴玉を持っていた。信洋に口を開けるように催促して、飴玉を押しこんでくる。
あわてて口先を尖らせると、下唇に小雪の指が触れた。口の端から飴玉が転がり落ちそうになり、もう一度咥えなおす。
今度は舌の上にはっきりと小雪の熱を感じた。その瞬間、視界が真っ白になった。
ぶつかる――と思ったが、次の曲がり角までまだずいぶん距離があった。信洋は脱力して、ハンドルに腕をもたせかけた。
小雪がくすくすと笑っている。からかわれたのだと気づいて、顔面に血液が集中するのを感じた。夜闇に包まれる車内でもごまかしようのないくらい赤くなった顔をふって、信洋は口を開いた。
「あの日はほんとゴメン。結局、武さんに運んでもらったんだっけ」
「うん、そう」
彼女は消え入りそうな声でそう言って、サイドガラスの外に視線を注いだ。心臓がじくじくと痛みだすのを感じながら、疑念を打ち消そうと必死でハンドルを握る。
そのあと、どうしたの――と聞けない自分が、情けなくてたまらなかった。
あの雪の夜、『ブラックバード』を出たというメールが来たきり、小雪からの返信が途絶えた。愛美から聞いた話によると、武の車で送ってもらったとのことだった。荻野家までの距離を考えても、通信がこと切れたとき小雪は武の車に乗っていたはずだ。
武が唐突に『モーニン』をやりたいと言いだして、そのあと二人はどうしたのか。
今朝のように、武の借家に行っていたのではないのか――
どす黒い想像の嵐が信洋の心を侵食していく。誰も嘘は言っていないのに、どうして気持ちは灰色に塗りかえられていくのだろう。
口腔内に転がる飴玉はこんなに甘いのに、二人の間にあった恋人らしい空気は瞬く間に消滅してしまった。
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