6.信洋の章 遭遇

2/3
50人が本棚に入れています
本棚に追加
/79
 車を十五分ほど走らせ、向かったのは『ブラックバード』だった。  運転中、紗弥は一切口をきかなかった。いつもカーステレオをつけている信洋はエンジン音だけの車内が落ち着かなかった。ましてや隣に座っているのは小雪の姉だ。信洋は紗弥の横顔をうかがったり、先ほどの光景が眼前にチラついたりと、ひとり忙しくするしかなかった。  ランチ営業中の店内は、にぎやかな喧騒に包まれていた。ライブのある夜とは違ってステージ上にまでテーブルが並べられ、白いグランドピアノは申し訳なさそうに隅におさまっている。日射しが差しこむ明るい店の中を見渡していると、紗弥はカウンターに向かって歩き出した。  うながされて背の高いスツールに腰を下ろすと、綿谷がグラスを持ってやってきた。 「紗弥ちゃん、新しいボーイフレンド?」  綿谷が緑の眼鏡を上げながらわざとらしく言った。 「違うでしょ。妹の、可愛いボーイフレンド。路頭で彷徨ってたからかっさらってきたのよ。たまには年下も悪くないでしょ?」  そう言って紗弥はにやりと笑った。信洋はうろたえて言葉も発せなかったが、綿谷は慣れた様子で「ハイハイ」と言いながら、キッチンにひっこんでいった。 「お姉さんがおごってあげるから、お腹いっぱい食べなさい」 「え? いや……そんなのいいですよ」 「いいから年上の言うことに従う」  強い口調で言いながら顔をよせてきたので、首を縮めて返事をしてしまった。  綿谷がガラスの小鉢に入ったサラダを並べると、紗弥は「いつもの」と言った。 「あの……いつものってなんですか?」  手渡されたメニュー表から顔を上げて聞くと、彼女はため息をついて言った。 「人のこと気にしてないで、自分で食べるものくらい自分で決めなさいよ。小雪といるときもそんな調子なの?」 「そうですね。小雪さんに食べたいもの選んでもらって、分けてます」  あのねえ、と言ったきり黙ってしまった。頬杖をつくその姿は、先ほどの武を鏡写しにしたように似ていた。 「みんながよってたかってあの子を甘やかすからいけないのよね」  きつい言葉を言っていてもどこか優しい含みもあって、信洋は笑ってしまった。 「お姉さんもそのひとりですか?」 「そうよ、っていうか、私の前で小雪さんって言うのやめなさい。小雪でいいし、私のことも名前で呼べばいいから」  そう言って紗弥はサラダを食べ始めた。メニュー表にふたたび視線をはわせながら、愛美が「紗弥さん」と呼んでいたことを思い出す。  綿谷にカツカレーを注文してから、「ごちそうになります」と頭を下げた。  それからまた武の顔が思い浮かぶ。紗弥のむこうの席は、彼の特等席だ。ライブの前後はいつもカウンター席の隅に座って、トランペットを構えている。  ついこの間まで小雪とドラムのことで頭がいっぱいだったのに、このところそこへ武の立ち姿が侵入してきて、その度にかき消そうと無駄な努力をしてしまう。 「また余計なこと考えてるでしょ」  食べなさい、といわんばかりに紗弥はフォークをさし出してくる。 「あの二人が付き合ってるなんてことはないから、忘れるように」  具体的な名前がでなくても、誰の話をしているかはわかった。男女のことなど結局は本人たちにしかわからないのに、なぜ紗弥は核心を持って言えるのだろうと不思議に思う。 「あの……紗弥さんは武さんと付き合ってたこと、あるんですか?」
/79

最初のコメントを投稿しよう!