第九話

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第九話

 山林の中はひんやりと涼しく、パーカーを羽織ってきて正解だな、と思う。  昨日はやたら気ぃ遣ったな、と目の前を歩く朗が独りごちる。  あの後、煙草を吸い終わった朗が、宿題を終えていないことを指摘してきた。事情を知った章子は私のせいだわ、大変、と慌て始めて、今日また朗とこの場所に来ることになった。  一緒に居られるのは嬉しいけれど、そろそろ宿題のことは忘れてほしい、というのが引きこもり高校生の正直な気持ちである。 「九月には時期を過ぎちまってるものもあるが、大抵はまだ残ってる筈だ」  天蘭が見つけた花を書き留めたノートを見て、朗は呟く。 「……あと三種類くらいだな」  果てしなく多い訳ではなかったので、ほっと胸を撫で下ろす。 木の間や根元を注意深く探し回り、一時間ほどで二種類は見つけた。答えを教えてくれる気は全くないらしく、歩き回る天蘭の後ろを付いてくるだけだ。 「ち、ちょっと休んでもいいですか……?」 「山道は歩き慣れてないときついか。ちょうど今、向こうの国道まで歩いて一時間ってところだから、休んで行こう」  朗の説明によると、歩いてきた道は山の一部をくの字に通っていて、はじめと終わりが国道に接続しているのだという。国道ができる前はこの道を使っていたが、今は時折物好きが散歩する程度らしい。  今いるところは「く」のちょうど折れ曲がっている部分だ、と説明されて納得した。  天蘭は古びたベンチに腰掛けて、持ってきた水筒のお茶を朗に渡した。喉が渇いていたのか、一気に飲み干した。 「ありがとう」 「二人で飲もうと思って、多めに持ってきました。作ったのはお父さんだけど」  朗から返された水筒のコップにお茶を注ぎ、ゴクゴクと飲んでいる途中で、はたと気づいた。  あれ、これ、間接キス……。  余計に顔が熱くなる。隣にいる朗に、異変に気付かれそうだ。  男同士なんだから、なんでもない。気にすることない、そう思うのとは裏腹に、心拍数はどんどん上がっていく。 「おい」 「わっ!?」  コップを取り落としそうになり、わたわたと手をばたつかせる。うまくキャッチできたところで安堵のため息をつくと、朗が立ち上がった。 「向こうの方がぬかるんでる。春にはあんなところなかったのに。夏の雨のせいか?」  朗は天蘭の様子には全く気付かず、目の前の林の奥をじっと見つめている。 「花がある」  天蘭は朗の視線の先を見るが、そこには茶色の地面と緑の植物しかない。朗はスタスタと歩き出し、ぬかるんだ地面の方へ入っていく。 「あ、待って!」  林の奥に、木の自生していない場所がある。夏の長雨で、湿地帯のようにぬかるんでいる。  その奥に、一輪だけ白い花が咲いている。どこかで見たことがある。ビニールハウスだろうか、朗の家だろうか……と逡巡したあと、天蘭は気づく。 「写真の花だ」  初めて朗の家に行ったときに見た、あの写真の花を思い出す。  近寄って見ようとすると、ぬかるみに足を取られた。天蘭はそこで止まってしまったが、朗はおかまいなしに近づいていく。ズボンの裾が泥で汚れているのを見て、天蘭のほうが慌ててしまった。靴はもうドロドロになっている。 「見つけた……。あの花だ。しばらく来てないから気づかなかった」  突然喋り始めた朗に面食らった。 「思ったよりも小さくて可愛いな。活けるとしたらどんなふうに……それよりも殖えることを待つのが先か……」  うわ言のように呟く朗は、想像力が止まらない絵描きのような迫力があった。いろいろな角度から花を見て、葉の裏をじっと観察している。  普段の様子からは知れないが、やはり彼も芸術家なのだと思う。  その様子を天蘭はじっと見つめていた。薄い唇は何か言葉を紡いでいる。前よりも髪の毛が伸びていて、耳の上半分を覆い隠している。差し込んだ木漏れ日に黒々とした睫毛が照らされて、時々瞬きする。  自分にはない、男性の力強さを感じた。  自分もいつか大人になって、ああいう風に逞しくなれるのだろうか。 「……よし。俺の予想が正しければ、二週間後には同じ花がたくさん生えてくる。活けるかどうかは、その時に考えよう。足元も悪いし、人や動物が立ち入ることもないだろう」 「場所を忘れないようにしないと」 「そうだな」  天蘭は忘れないように、スマートフォンで花の写真を撮った。  その後いいことをひらめき、朗を手招きする。 「花と一緒に二人で記念撮影しましょう!」 「は? やだよ」 「スマホのカメラなら日付の情報も入るから、見つけましたって証拠にもなりますし。ほら!」  そう言ってスマートフォンのカメラを起動して、インカメラに切り替える。  証拠になる、と言う言葉が効いたのか、朗は天蘭の元に近づいてくる。  花と朗と天蘭を全て写真に収めるのは、なかなか難しかった。人間二人はぴったりとくっつき、背景の遠くに花がある写真でなんとか妥協した。 「はい、終わりました。後で送りますね」  と、横を向いた瞬間に始めて、天蘭は自分が朗にぴったりとくっついていることを意識した。写真を撮っている時は気付かなかったが、パーカー越しに腕と腕が触れている。  こんなに近くにいると、やっぱりドキドキしてしまう。  心臓の音がうるさくて、離れようと体を傾けた瞬間。  足がもつれてよろめく。 「わ……っ」 「天蘭!」   転びそうになった天蘭の肩を、朗が抱き留めた。  さっきよりも密着する形になって、ますますパニックになる。肩を抱いている朗の手の感触が、洋服越しに伝わってくる。  恐る恐る見上げると、朗も天蘭のことを見つめていた。朗は天蘭が体勢を立て直したのを確認すると、すぐに肩から手を離した。  離れてしまうのがたまらなく悲しくて、言葉が口をついて出た。 「……やっぱり、朗さんのこと、好きです。朗さんの気持ちを、聞きたい。子供だからとかじゃなくて、朗さんの思っていること……」  気の迷いだとか言われても、それでもやはり好きだった。 朗自身が自分のことを好きか嫌いか、その核心に触れることは無かった。  聞くのは怖い。  でも、聞かないと……ずっと前に進めない。 「天蘭」  その声に名前を呼ばれて、どきりと心臓が跳ねる。  呪いにかけられたみたいに、身動きが取れなくなる。 「俺も、あの日以来、お前のことが忘れられない」  朗はそう言った。とても小さい声だったので、木々のざわめきにかき消されてしまいそうなほどだった。 「でもお前とは親子ほど歳が離れている。実際、お前の親とは同い年で、あいつが村に残ってたら同級生だった。……思春期の子供は、性的なことへの興味が爆発する時期だ。女が少ない村だから、悶々とした気持ちが歪んだ形で発露しただけだ。思春期を超えて大人になれば、女の尻を追いかけるようになる」 「そんなことない! 俺は本気です!」 「そんなの証明しようがないだろ」 「ていうか、俺のがどう思っているかは、どうでもいいんです! 朗さんは俺のこと、どう思ってるんですか……?」 「……言えない」  この人が、こんな風に自分の気持ちを言おうとしない理由って、なんだろう?  天蘭のためを思って。子供だから。そう言われるたびに、今まで自分が率先してこもっていた殻が、こんなにももどかしい者ものなのかと感じた。  大人として教育的な立場に立とうとする朗の心の奥には何があるのだろう。 「……朗さん」  朗はゆっくりと、口を開いた。 「……忘れようと思えば思うほど、お前のことが頭にこびり付いて離れない」  良い意味で? それとも悪い意味で?  今にも問い詰めたい気持ちを、抑えて言葉を選ぶ。ここで彼の心が開かなかったら、もう一生、心を通わせることはできない。そんな気がした。 「俺のことが、好きってこと?」  天蘭は縋るように朗を見た。  風の吹かない森は、本当に静かだ。  朗が口を開くまでの一瞬が、永遠に続いているように感じる。 「……そうだ。……でも、俺は、もともとこの村に逃げ帰ってきた人間で……、お前に尊敬されたり、好かれたりするような人間じゃない」 「逃げ帰ってきた……?」 「本当の俺がどんなやつか知ったら、きっと嫌いになる」    木々のざわめきを背景にして、朗がぽつりぽつりと語り始める。  朗は、人に華道を教えられるような階級に昇進して、作品を作りながら、華道教室で華道を教えていた。華道家になるからと家を出て二十年以上、東京にいたことになる。  東京に出たばかりの時は、華道家としての仕事はあまりなく、華道教室のスタッフという職業がメインになっていた。  朗のいた華道教室は優雅な主婦のお稽古ごとみたいになっていて、彼女たちの機嫌を損ねないこと、というのが一番大事な仕事。もちろん無愛想な朗はすぐに、彼女たちから嫌われてしまった。  その噂が運悪く自分の流派の役員クラスの耳に留まってしまう。悪いことが重なり、申請していたより上のクラスの免許は、通らなかった。  免許が通らなくても、実力でのし上がれば良いと思っていた。そう思って作品作りに没頭して、十年近く経った。勉強の成果が実を結び、ようやく頭角が現れそうになったときにはもう――若くて後ろ盾もある華道家たちに、仕事がかっさらわれるようになっていた。  ふと周りを見ると、同じ時期に入った同期はもう個展をやっていたり、弟子がいたりする。  弟子もいない、仕事もほとんどない状態のとき、親が危篤だと知って――介護のためにと言い訳をして、ここに逃げ帰ってきた。 「だから、俺はお前が思うような――素晴らしい人間じゃない」  キラキラした目が見てくるから、ちょっと得意になっちゃって、言い出しづらくて。と、朗は気まずそうに視線を下げた。 「俺は朗さんがすごい人だから好きになったんじゃありません。エッチなことにも……まあ、興味がないって言ったら嘘になりますけど……他でもない朗さんだから好きなんです!」  想いを言葉にすると、途端に実感が伴ってくる。  俺ってこんなに朗さんのことが好きだったんだ。  不意に目の前に影が落ちる。  朗がじりじりと天蘭の方へ近寄ってきた。このままじゃぶつかってしまうから、天蘭は後ろに下がるしかない。  下がる場所が無くなって、背中が木の幹に触れた。それでもお構いなしに朗は近づいてくる。  木に片手をつくと、空いた方の手で天蘭の顎を支えた。  焦茶色の光彩の上に、透き通った硝子のような水晶体があるのが分かるくらい、近づいている。朗をじっと見つめていると言うことは、天蘭もじっと見つめられて居ると言うことだ。 「――ッ!」  恥ずかしくて視線を外すと、自分の腕に三センチくらいの虫が止まる瞬間が目に飛び込む。 「ぎゃっ、虫!」 「えっ、どこだ!?」  パニックになり腕を振り回すと、虫は再びどこかへ飛んでいった。腕を振り回した瞬間に顎を支えていた手は離れていき、朗は呆然として立っている。 「びっ……くりした。……あぶねえ……」 「あ、危ない……!? 刺されるとやばい虫ですか!?」  追い打ちをかけるかのように電話の呼び出し音が響く。天蘭は驚いて飛び上がった。 「なんだ、電話か……」  慌ててポケットを漁り、スマートフォンを取り出す。父からの電話だった。 「天蘭。今どこにいるんだ。今すぐ戻ってきなさい」  朗がこちらを見ている。お父さんです、と口パクで伝えると、眉間の皺が一層深くなる。 「はい……」  終話ボタンを押すと、朗はきびすを返す。 「戻ってこいって言われたんだろ?」 「そうです……」 「戻ろう。一緒に行くから」  とんと背中を押された。見上げると、さっきとは打って変わって険しい表情を浮かべている。  沈黙の中、家まで向かう。その間にいろいろなことを考えた。  朗が天蘭のことを思って、身を引こうとしていた。  つまりは両想い。  でも両想いって、もっと、お互い「好きだー!」みたいなことになるのではないか?  天蘭は怪訝な顔で朗を見る。  朗はいつも通りのそのそと歩くだけ。視線を送ってくれることもない。天蘭ばかりがどぎまぎして、なんだか少し悔しいくらいだ。  そうこうしているうちに、天蘭たちは家にたどり着いた。  農作業の時の姿のまま、家の前で父が立っている。 「父さん」 「……僕は天蘭に帰ってくるように言ったんだけど」  ひんやりとした態度に、天蘭の肝も凍るようだった。  父は朗とは目を合わせず、天蘭と同じ色の虹彩を地面の方に向けたままだ。 「違うんだよ、父さん! 朗さんは名前を勝手に使われて――」 「だから何?」 「え?」  ふい、とその虹彩が天蘭を見た。緑がかった目の奥に、炎が燃えるような怒りが見える。 「無記名であの写真が送られてきて、同じ筆跡で朗くんの名前で手紙が来てたことを思い出した。毎年朗くんが送ってくれた年賀状と見比べてみたら、似ても似つかない筆跡だったよ。僕が、本人だって確認すれば良かったのに……。でも、朗くんと天蘭の間にあったことは事実でしょう。僕はそれを認められない。天蘭はまだ未成年だ。――君の選択を恨むよ、朗くん」 「そんな……! 朗さんは俺を助けてくれた。俺に乱暴しようとしたのは、その手紙を送ってきた人なのに!」 「天蘭。やめろ」  朗は息を吐く。殴られることを覚悟したかのように、ぎゅっと目を瞑った。 「……あんたの言うとおりだ。異様な雰囲気に呑まれて、こいつがおまえの息子だと気づいても、止められなかった」  多分一目惚れだったんだろうな、と朗はため息交じりに言った。  秋の風が、葉を誘いながら吹き抜けていく。奇妙な沈黙のせいで、「一目惚れ」という言葉が増幅していく。  朗さんが、俺に?  一目惚れ……?  さっきからどんでん返しどころの事態じゃない。一八〇度どころか三六〇度回って、心の中は落ち着き払っている。  天蘭の父は、そうか、と短くため息をついた。 「天蘭は東京に戻ってもらう」 「はあ!? オレはまだ、ここに……」 「俺もそれが良いと思う」  そう言ったのは他でもない、朗だった。 「なんで……!?」 「なんでもだ」  両思いなのに好きな人と少しでも一緒の時を過ごしたいという気持ちすら、共有できていなかったということに胸が苦しくなった。 「天蘭が成人するまで、朗くんとは会わせない。天蘭が大人になって、それでも朗くんが好きなら――そのときは止める権利は僕にない」  成人まで、あと三年。三年後には、もう朗さんは自分のことなんか忘れているかもしれない。そんなのいやだ、と言っても父は聞き入れてくれなかった。  学校にも行く、ゲームも我慢する。思いつく限りのことを言ってみても、事実が伴っていないから聞き入れてもらえない。  自分が子供であることを、守ってもらえる立場であることを突きつけられる。 「俺は朗さんのことが好き。朗さんも俺のことが好きなんでしょ……!? 俺のことが好きなら、引き留めてよ!」 「……ッ、……できない」 「どうして……」 「……それは……」  朗は苦々しい顔をして言い淀む。 「……ごめん」  そう言って、朗は天蘭の元を離れて遠ざかっていく。  天蘭は呆然としてそれを見つめた。何分経ったのか、何時間経ったのかも分からない。  はっと我に返ったときには父親が側に立っていて、家へと入るように促した。  ダイニングテーブルに座った天蘭の前に、暖かいお茶が置かれた。 「……どうして」  どうして俺は東京に戻らなきゃいけないの。  どうして俺は朗さんに引き留めてもらえなかったの。  分からないことが多すぎて、頭がパンクしそうだった。 「……天蘭が、まだ子供だからだよ」  父は言った。  十七歳。  昔で言ったら、とっくに成人している年齢だ。  自分の年齢がもどかしい。それと同時に、今の自分が大人の世界に放り出されても、きっと生きていけないだろうというのは容易に想像が付く。 「ごめんね……天蘭。僕が故郷に帰りたいっていわなければ、こんな目にも遭わなかったのに……」 「……そうだよ」 「僕の過ちも含めて、それでもやっぱり僕は天蘭のために最大限のことをしたい。……最初は自然とか、ちょっと不自由な生活が、天蘭にとって良い経験になると思っていたんだ。……ここではお互いがお互いを見て、助け合う文化が根付いている。でもそうじゃないほうが、天蘭にとって居心地がいいんだろう?」 「……」  天蘭は迷ったのち、頷いた。朗が居なければ、この村に残る理由の八割はなくなってしまう。 「そういう気持ちでここに残っても、いつか必ずしわ寄せがくる。ましてや、天蘭に乱暴しようとした人もここにはいる。好きな人が居ることは、良いことだけれど……それに全部を委ねてしまうことを、父として良いことだとは言えない。……人間としてだったら、そういう生き方もあるかな、と思うけどね」  父が自分を想ってくれていることは、痛いほど分かった。天蘭が傷つかないように、大切にゆりかごに乗せるかのごとく、守ろうとしてくれている。 「情熱だけで突っ走ることができるのは、若い人の特権だけれど……、天蘭はまだ、情熱をエンジンにする方法を知らないくらい、小さな子供なんだ。僕たちは動物じゃない。だから、社会の仕組みに従って――成人するまで天蘭を守るのは、他でもない僕とママの役目なんだ」  そしてそれを朗くんも分かってくれてる、と父は言った。  天蘭は、緑色の湖面をみつめて、それから湯飲みのお茶をすすった。  父の淹れる緑茶は、いつも通り苦くて、涙が出そうだった。  山が赤く色づききる頃には、もう引越しの手続きは済み、あとは天蘭が東京に行くだけになった。今日が出発の日である。 これからこの村は、嫌が応でも舵切りをしなければならないだろう。今度行われる選挙には、宣言通り朗の姉も立候補するそうだ。  がらんとした子供部屋の机の上に、一冊のノートが置かれている。 「最後の花、見つけられなかったな……」  そう呟いたとき、あの幻の花の存在を思い出した。  朗の予想だと、一週間後には咲き乱れているという話だった。  もう三週間は過ぎているが、まだ咲いているだろうか。  父はちょうど、天蘭を東京に送り届ける前に畑の様子を見ておこうと、先ほど出掛けたところだった。土地だけは無駄に広いので、あと一時間は戻ってこないだろう。  ――走ればあの場所に、十五分ほどでつく。誰にも会わないだろうし、急いで見に行こう。  思うより早く、ノートを持って走り出していた。  朗と一緒に見た最後の花。植物は奇跡的なバランスで、美しい花を咲かせる。  朗と出会って、そのことを知った。  人の手で切り取られ、人工物の中で自然の美を伝える花も、凜と野に咲く花も、どちらも美しいことを知った。  カラリとした秋の空気は、林の中も乾燥させているようだった。奥へ進むにつれ、その空気が徐々に湿気を帯びたものになっていく。  以前見た、ぬかるんだ一帯のあたりにたどりつく。木の幹の間から、色づいた緑が見える。  ――そして、たくさんの小さな花も。 「朗さんの言うとおり、たくさん咲いてる……」   近づいて見てみると、めしべの下の花弁が独特の形をしているのが分かった。天使の羽根のような、鳥のような、そんな形をしている。  花全体を見ると、クリオネのように見えて愛らしい。記念に写真を撮って、その場を去ろうとした、そのとき、人の気配がした。 「天蘭」  気配がしたときは父親が追いかけてきたのだと思って、後ろめたさで視線を下げた。しかしすぐに声の主に気づき、振り向く。 「朗さん……」  悲しいような、ほっとしたような、なんとも言えない気持ちがじんわりと広がっていく。 「花、咲いたな」 「うん」  朗はゆっくりと近づいてくる。天蘭の目の前に立ったが、ポケットに手を突っ込んだまま天蘭に触れようとはしなかった。 「向こうでも、体壊すなよ」 「……うん。朗さんも」  最後に目に焼き付けておこうと、朗の顔をじっくりと見た。肌のくたびれ方、笑うと目元に刻まれる皺。そのすべてに年齢の隔たりを感じて、もどかしく想う。 「……俺、ずっと子供でいたいと想ってた。でも朗さんに会ってから、早く大人になりたいって……そればっかり考えてる」  もっと早く生まれていたら。もっと早く、朗さんに出会えていたら。  過去は変えられないのに、そんな焦燥感に駆られる。 「焦らなくていい。俺も大人になったと思えたのは最近だ。ゆっくり……自分のやってみたいと思うことをやればいい。以外と生きていけるぞ、俺みたいに」 「……そうします。朗さんを見てると、人って意外と生きていけるのかな、って思うようになりました」 「歳を重ねても、自動的に大人になっていってるわけじゃない。もがいてもがいて、やっと一つ上に登れる感じだ。だから……がんばれよ」  ゲームのレベル上げみたいに、同じことを繰り返して経験値を積むだけでは大人になれない。  天蘭にとって大人とは、親くらいの年齢に近づけば自然となっているもので、できればずっとなりたくないもの。それ以上のものではなかった。  でも、大人になりたいと強く思い始めたとき、大人ってどうやったらなれるんだろう? という疑問が絶えず付いて回った。  朗は言った。いろいろなことをやってみろ、と。  近道はない。ただ一歩一歩、地面を踏みしめて彼に追いつくしかない。自分の心に何をしてみたいか聞いて、とにかくやってみたい。 「がんばります」 「……ほんとは、お前と一緒にいるのが楽しくて、一緒にいた。花の話をして、誰かに喜んでもらったのが久しぶりで、……嬉しかった」 「……えっ?」 「……あのときは酷いこと言って悪かった。……お前が東京に帰ったら、淋しくなるな」  朗の顔を見ると、ほんの少しだけ、目が潤んでいた。  それを見た瞬間、ぎゅっと固まった心の結び目が、解けていくような気がした。  もう、十分だ。  幼い恋を終わらせるには、十分だ、と思った。 「……」  天蘭は手元のノートに気づいた。  ――これを渡そう。またいつか、会える日を願って。  自分の将来も見えていない人間が、待っていて欲しいとは言えなかった。  彼の時間は、多分、自分よりも少ない。約束で縛るのは忍びないと思った。 「あの、朗さん。……これ、夏休みの宿題って言ってたやつです。結局、提出しなかったけど。ていうか、最後の花、見付けられなかったし……。いつかまた会える日まで、預かっておいてください」  朗の胸に強引に押しつけると、顔を見ないように振り返った。元来た道を歩き出す。  天蘭はだんだんと歩を緩め、ついには立ち止まった。  振り向いて朗の方を見ると、ノートを持った彼が視線を送り返す。 「……さようなら!」  そう言うと、朗も片手を上げた。  息ができないくらい苦しかった。  切ない。哀しい。  手を振る彼を見ると涙が零れそうになる。 あわてて朗に背を向け、もと来た道を引き返した。
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