第三話

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第三話

 天蘭の部屋は、必要最小限のものしか置いていない。  シングルベッド。勉強机を兼ねたパソコンデスク。ノートパソコン。スマホの充電器にハンガーラック。  それだけあれば、現代の高校生には十分だと思う。漫画も音楽もスマホで済んでしまうからだ。  調べ物もネット注文も、同級生たちはスマホで終わらせてしまうが、天蘭は自宅では、父から譲り受けたノートパソコンを使っている。  母親が大学教員である天蘭は、スマホを持たせてもらうより先にパソコンを与えられた。大学生になってから社会に出る時に、スマホではなくパソコンが操作できることは大きなアドバンテージになる、という考えからだ。  特に何ができるようになったわけでもないが、その名残で調べ物をする時もパソコンを使う。学校の授業で教わる程度の、簡単なプログラミングもできる。  六畳ほどの子供部屋のドアを入ると、窓際に置かれたベッドが一番初めに目に入る。そのベッドを背にするようにパソコンデスクがあり、パソコンを開いた状態でドアを開けると、その画面が丸見えになってしまう。調べ物をしているフリをして、こっそりネットの面白い動画を見ているときなどは、十秒おきに後ろをみて親が来ないか確認している。  今回も例に漏れず、天蘭はこそこそと背後を気にしながら、検索エンジンの検索バーに「郡朗」と打ち込んだ。  夏祭りの夜、逃げ帰るように家に帰った天蘭は、自室で震えながら父の帰りを待った。  どうしてこんな村に引っ越そうと言ったんだ。  どうして。どうして。  真っ暗な部屋の中、父を責める気持ちは膨らみ続け、破裂しそうなほど膨れ上がった。  甘い匂いを纏わせて帰ってきた父が、力作だという綿あめを差し出してくれたのを見て、自分自身に起こった出来事を訴え出ようという気持ちは萎んでしまった。  ――知らないんだ。  父は、小学校に上がる前に引っ越したと言っていた。今し方天蘭が経験した出来事を、父は知らない。  地域に馴染めないでいる自分のことを、父が気に病んでいることを知っていた。性根が腐った奴は、家族に迷惑をかけることなんか少しも気にしないのだろうが、天蘭はそこまで腐りきれないタイプの人間だった。  言葉を飲み込み、綿あめを受け取ると、父は安心したように笑った。  そこから天蘭が考えたことは、あの後どうなったのだろうということと、天蘭を抱いた男のことだった。  儀式とかいう言葉で片付けられていたが、思い返せば、少年たちは嫌がっていた。双方の合意が無いならそれは暴行だ。  助けも呼ばず逃げ帰ったことに対する罪悪感と、自分を抱いた郡朗という男のことが脳裏から離れない違和感。その二つが、天蘭の心をじわじわと苛む。  しかし、親の他に知り合いもいない天蘭は、他の少年たちはどうなったかを知る術はなかった。  手がかりは、郡朗と言う名前。今の時代、検索エンジンで名前を検索すればそれなりの情報が出る。本人のSNSは難しいかもしれないが、勤務先のホームページくらいはヒットするかも。  郡朗、で検索した結果、出てきたのは華道家・郡朗のホームページだった。  展示会情報、講演情報の位しか載せていない質素なつくりで、SNSの類いは一切出てこない。  プロフィールページを見ると、生まれた年と出身地、略歴が載っていた。  計算してみると、あの男は四十六歳であることがわかった。父と同じくらいの歳。確かに、見た目的にもそのくらいの年齢だったかもしれない。  出身地は――予想通り、三垂村だった。高校卒業後にどこかの華道の一門に入門し、二十年前くらいに師範の資格を取ったと書いてある。流派の名前は、天蘭には読めなかった。  近影のようなものも載っていないが、こんな狭い村に郡朗なんて珍しい名前の人物は二人といないだろう。  華道家の、朗さん。  あきらさん、と口の中で転がすように呟くと、あの時の甘い痺れが蘇ってくるような気がした。  また会いたい。  なぜ自分がそんな気持ちになるのか、天蘭にも分からなかった。  自分でも理解できない感覚に、頭を抱えてしまった。外の空気を吸おうと思い、ベッドの上に移動して窓の外に目を向けると、家に続く道路を小学生くらいの子供が楽しそうに駆けていく。  こういう自然の中でのびのび育てるということは、「いいこと」なんだと、爆然と思う。  都会の時間の流れに比べて、三垂村で過ごす時間はゆったりとしている。都会ではせわしない人の波と行き交う電車に追い立てられて、自分がどういう存在なのか、ゆっくり考えることも無い。  ここにいれば嫌でも人間という存在がどういうものなのか、嫌でも考えることになる。  考える時間は、気の遠くなるくらいある。人間以外にもイノシシやヘビが出たり、タヌキが出たりする。熊だっている。人間以外の有機体によって、人間が命を落とすことも、この土地では珍しいことじゃない。  この村の人たちは、大きな「ヒト」という種族の枠組みの中にいることを無意識に自覚しているような気がする。  それはすなわち、自分がただのヒトであるということを認め合って生きているということだ。そして、自分という意識が失われても、兄弟や子供、孫と命は受け継がれていくことを、自覚している。  それが分かっているからこそ、人間は、自分を特別だと言ってくれる人を大切にできる。  三垂村に帰ってきた父を見ていると、そのことがよく分かる。  東京で機械のように働いていた父は、人ではなかった。父は、天蘭にとってはかけがえのない父だが、会社にとっては代替可能な部品だった。十七年程度しか生きていない天蘭は、世界とはそういうものだと思っていたが、どうやら違うらしい。  父は今、いきいきと笑っている。人間関係に傷ついたり、心配したりしつつも、近所の人と楽しそうに雑談して笑い転げている。ここの村の人たちは、たぶん父を社会の部品ではなく、個として見てくれる。特別だと言ってくれる。  きっと父は、その状態を望んでいたのだろう。  自分を特別だと思ってくれる人間の中で暮らすのは、心地良い。  天蘭自身も、親以外との関わりを断って、その心地よさに浸かっている人間である。  心をすり減らす必要もない。物みたいに扱われたりしない。  父の話に出てくる、近所の農家のお父さんやお兄さんたちとは似ても似つかない。  車を買い換えて自慢げにしていたとか、一緒に隣町のホームセンターに肥料を買いにいったとか。  天蘭が父親を介して知った村の人たちは、そういう普通の良い人たちだったはずだ。  だからこそ余計に、あの日の朗以外の大人たちの振る舞いに吐き気を催した。 「……怖かった」  天蘭の脳裏に、あの日の情景が蘇ってくる。  朗さんは、自分を好きだと言ってくれた。特別だと思ってくれた。  でも――突然知らない他人との性交を強要された、他の子たちはどうだっただろう? きっと物のように扱われ、プライドはずたずたになったはずだ。  大人たちの暴力的な怒張が彼らの口にねじ込まれている映像がフラッシュバックする。天蘭は目を瞑り、険しい顔で頭を振った。  自分が置き去りにしてしまった少年たちが、どうなったのか。  そんなこと、自分に関係ないと切り捨ててしまっても良い。  しかし、良い人にも悪い人にもなりきれない天蘭は、彼らの心の傷を考えると、胸のあたりがざわざわした。  大人が豹変して、腕を掴まれた時のことを思い出すだけで鳥肌が立つ。  怖いけれど、確かめなきゃ――  天蘭はパソコンを閉じ、三垂村の地図を取りに階下へと降りた。  郡家は、すぐに見つかった。  というのも、父の住所録に、"郡朗"という名前があったからだ。他に郡という名字の人はいない。 「父さんの知り合いなのかな……」  家族はいるのだろうか。どんな風に生活しているのだろう。  奥さんはいるのだろうか。恋人は?  不意にあの日の情交を思い出し、誰も見ていないのに顔が熱くなった。  向こうがあのとき好きって言ってきただけで、別に俺はなんとも思ってない。  好きと言ってしまったのは、成り行きだ。たぶん。  朗という男が、男に一目ぼれする酔狂な人なのか、天蘭がなるべく傷つかないように心を配ってくれたのかはわからない。  とはいえ、周りの少年たちが味わったような、泣き叫ぶほどの嫌悪を感じなかったのも事実である。「逃げてもいい」と言われたのに、朗の醸しだす雰囲気にのまれて、彼に体を預けてしまった。  ――やっぱり俺って、変なのかな……。  いずれにせよ、今このもやもやとするような、恥ずかしいような気持ちの正体は、彼にもう一度会うことで解明されるはずだ。  そう思って住所録を写真に収めておいた。  天蘭の家からは遠く、ちょうど村の中心にある村の集会所と神社をはさんで対角線上にある。  ――とりあえず、父が出掛ける週末に尋ねていこう。  そう思った瞬間、今はプレイしているスマートフォンのゲームの通知が目に入る。  いつもは飛び上がるほど嬉しくなる、史上最強モンスターの言葉に、なぜか今は心が踊らない。  明るくなった画面を消灯する。 「……とりあえず、部屋でゲームしよ」  乗り気でなくても、スマートフォンのゲームはついプレイしてしまう。  天蘭は自然と、自分の部屋へと引き返していった。  ***  この村はインターネット上の地図にも表示されないような村である。そのため、スマートフォンの地図は使い物にならない。  抜けるような青空の下、天蘭は地図を片手にあぜ道を歩いている。  持ってきた地図で確認しながら、田んぼを抜けていく。  出掛けるというと父が大きな麦わら帽子を貸してくれた。  顔に影が落ちて、灼けるような日光から、天蘭を守ってくれる。  それに加えて、父が天蘭の首にタオルを無理矢理巻いた。最初はこんなもの必要無いと思っていたが、頭を伝って首まで流れ落ちる汗を、タオルが吸い取ってくれている。  気温が高いので、生ぬるい風が時折頬を撫でていく。そのせいで、体から吹き出す汗はどう頑張っても止められなかった。  さっき車で出かけていった父に、心の中で感謝する。  学校に行ってないことを知っている人もいるので、顔が隠れるのは都合が良い。  不登校が外出してる、と誰かに言われたりしないか心配しながら歩いていたが、すでに畑の手入れは終わっている頃合いだった。そのため、あたりに人の姿は見当たらない。  十五分ほど歩いたところで、神社を通り過ぎる。祭りの時の喧噪が嘘のように閑散としていて、この村の廃れっぷりを改めて感じることになった。  天蘭の家から、三十分ほど歩いたところで郡家の表札を見つけ、立ち止まる。 「ここだ」  日本家屋のような建物だが、壁や窓、扉に使われている木材が比較的新しい。最近リフォームしたのだろう。  それならば舗装されたアスファルトから家の玄関に続く道もコンクリートで固められているはずだが、家の建物以外の敷地は砂利が敷かれているだけだ。  玄関の両脇にはレンガで場所が区切られて、花壇がある。白、ピンク、オレンジなど色とりどりの花が、空に顔を向けるようにして咲いている。  植えられている木々もきちんと手入れされている。華道家の家なのだからそれもそうか、と思い直してあたりを見る。  インターホンを押すと、機械ごしに低い声が聞こえた。 「……はい」  あの声。  あのとき、天蘭の名前を呼んでくれた声だった。 「突然すみません。天蘭です。市容(いちよう)天蘭。夏祭りのときの――」 「市容……?」  インターホンの向こうで、彼は一瞬黙り込んだ。  帰れと言われるのかと思ってすこし不安になったが、「待ってろ」と一言だけ聞こえてきて、すぐに扉が開いた。  けだるそうなまなざしが、こちらを向く。明るいところで見ると、彼の頭に少し白髪が交じっていることが分かった。  ネイビーのポロシャツにチノパン。清潔感のある服装だと思いきや、革のベルトがボロボロだ。不快感を感じないのはきっと、背が高くて顔が整っているせいだ。  人間は結局顔だ、という誰かの言葉が思い浮かんだ。生まれてこの方モテたことなどない天蘭は、少し恨めしい気持ちになる。 「なにか用?」 「…………」  半袖から伸びる腕とごつごつした手を見て、あの日の光景が蘇ってくる。  とたんに、すでに日光のせいで熱を帯びている顔の温度が、かっと火を噴くように上がった気がした。  ――な、なんてことだ……。  とっさに俯いて、玄関の扉のドアあたりに目を転じる。  自分の弱いところを撫でたのと同じ指が、ドアノブを握っていた。  顔を見たらキスをしたときのことまで思い出してしまいそうで、顔を上げられない。話が進められない。  俯いて硬直してしまった天蘭の耳に、大げさなため息の音が聞こえてくる。 「はあ。……とりあえず入りな」 「は、はい……」  ぎこちなく俯いたまま敷居をまたぎ、玄関から居間に通される。促されるままソファに座った。  物は少ないが、ところどころに雑然と物がまとめられている。  はさみや、軍手や、花の写真。それもとんでもない量だ。  人の姿は見当たらない。きっと家族は外出中なのだろう。 「大丈夫?」 「だ、大丈夫です」 「それで、何しに来たんだ。ていうか一人?」 「一人です」  テンパっていてはだめだ、と天蘭はぎゅっと自分の手を握る。  ――このままではなにも解決しない。  あの夏祭りの日、唯一話が通じそうだと思った大人は、この人だけだった。  触れる手つきが優しかった。自分を慈しんでくれて、好きだと言ってくれた。  天蘭にも確証はない。自分の感覚だけで判断したのは失敗だったかもしれない。  そんなことが過ぎったが、今更後には退けない。 「……あの日、オレは逃げ出しちゃったから、他の子がどうなったのか、知りたくて……。泣いてる子もいたのに、助けるとか出来なくて、オレもまたひどい目に遭うかもって思って、家の布団の中で震えてるしかできなくて……。今更、こんなこと言っても遅いんですけど……」  話しているうちに、あれが出来たのではないか、これが出来たのではないか、と色々想像が巡って、涙が出そうになる。 「オレ自身は、たぶん、大丈夫だったんです。起こった出来事が大きすぎて、ちょっとびっくりしたけど……郡さんが優しくしてくれたから。でも、他の人は違ったかもしれない。あんな、なにも知らないのにむりやり……ッ」  涙目になったことを悟られたくなくて、俯いてしまう。  すると、戸惑った声が天蘭のつむじの先から声が聞こえた。 「おい、ちょっと待て。お前もしかして、何も聞いてなかったのか?」  その声を聞いて顔を上げると、彼は眉根を寄せて天蘭を見ていた。不快、というよりは困惑の表情だ。  天蘭は続ける。 「あんな目に遭うって分かってて、あえて来る人なんていません」  朗は目を見開いて、愕然とした表情を見せた。 「……マジか。うそだろ……」  頭を抱え、うなだれる。一連の動作の意味が分からず、首を傾げてどういうことかと朗に問うた。 「あれは三垂村で毎年行われる儀式なんだ。……あの議員の言っていることも本当。いくら嫌がったところで避けられない――みんな両親に承諾済みなんだよ」 「でも、うちの親はそんなこと一言も――ただ、お祭りの手伝いに行きなさいって」 「……お前は説明されていないってことは、お前の父さんも何にも知らないんだ、きっと」 「……そうか。父は、五歳の時に三垂村から引っ越して、最近ここに帰ってきたので……」 「そういうやつにもちゃんと説明して、合意を得ること、ってのがルールなんだけどな。何やってんだ……」  もうこんなことさっさとやめるべきなのに、と朗は唇を噛んだ。  この儀式は戦前から代々続いている、と朗は説明した。自分の小さいころに乱暴な扱いを受けたから、同じようにしてもよいと思っているらしく、儀式を理由にむちゃくちゃに少年を犯す輩もいるのだという。 「その、お前、大丈夫だったか? どこか痛いとか。……俺と二人きりになるのは、怖いとか辛いとか」  天蘭は頭を横に振る。 「痛みも、怖いとか辛いとかは思ってないです。でも……」 「なんだ」 「親には、言わないでください……、多分、悲しむと思うから」 「お前がそうしたいなら、言わねえよ。ていうか親の気持ちの心配より、自分の心配をしろ」 「……ごめんなさい……」  朗は気まずそうに頬をかく。それから、怒ってねえよ、謝るな、と小さな声で呟いた。 「……お前はなにも悪くない」  そう言われて、ふっと心の荷が下りた気がした。  顔を上げると、心配そうなまなざしがこちらを見ていた。  あの日と同じ焦茶色の虹彩が、天蘭を見つめている。虹彩は少しだけ不安げに揺れた。 「何か、変だと思うことがあったらすぐ親に言え。体調でも、気持ちのことでも。親に言いにくいなら俺でもいい」 「……はい。ありがとうございます」  強い言葉を使われて最初はびっくりするが、怒っているわけではなく、ただ不器用なだけのようだ。  別に感謝される謂われはない、と前置きしてから、朗は続ける。  「ああいうことには加担したくなくて、いままで断り続けてたんだけどな。外堀を埋められて、断りきれなくなっちまって……。本当は、あの儀式が今年も執り行われることを、未然に防げれば良かったんだが……」 「外堀……」 「まあ、お前には関係ないな。……忘れてくれ」  大人にも何らかの軋轢があるのだろう。それに巻き込まれるのは面倒だと思ったから、深く突っ込まなかった。  天蘭は引っ越して来たばかりで、その人間関係はよく分からない。  しかし、数回会った程度のこの男が、天蘭や子供たちに害をなそうとしている人間でないことくらいは、まだ十七年ぽっちしか生きていない天蘭にも分かった。  この人は、優しい人なんだと思う。 「とにかく、俺の心配したようなことは起こってなかった、ってことか……」 「ああ。でも……実際にそんなことをしたとは思いたくないが……無理に合意させられた子はいるかもしれない」 「……それって」 「親が認めてしまえば、合意になる」  天蘭は顔を顰める。  つまり、実の子供を人身御供に差し出した親も、いるかもしれないということだ。  そんなの強要されたのと大して変わらない。  目の前の男も、怒りの感情を露わにして呟いた。 「やっぱり、あんな儀式早く無くさなきゃいけない……」  朗の目の奥が、ぎらりと光った気がした。  炎が燃え上がるような壮絶な気迫。一瞬たじろいだが、その次の瞬間にはそんな炎は見えなくなっていた。  天蘭は目を瞬かせて朗を見つめなおす。  そこには先ほどと同じ、端正な顔の男がいるだけだった。  「煙草吸ってくる。冷蔵庫にジュースが入ってるから適当に飲め」  ひと通り会話した後、そう言って外に出て行く朗を目で追って、言われたとおり台所に向かう。そういえば、朗は喫煙家のはずなのにこの家は煙草臭くない。  奥さんや、子供がいるのかもしれない。  奥さんがうらやましいな。  天蘭は自分が子供を羨むのではなく、奥さんを羨んでいることに気づいて困惑した。  いやいや。  いやいやいや。  とんでもない目に遭ったから、すこし頭がバグってるだけ。  お気に入りのグラビアアイドルの顔を思い出して、深呼吸する。  心が落ち着いてきたところで、朗に言われていた通りジュースを飲もうと冷蔵庫の前に立ったことを思い出す。  人の家の冷蔵庫を勝手に開けていいものかと逡巡したが、許可を得ているのだから問題ないだろうと思い、扉を開けた。  冷蔵庫の中には、所狭しと切り花が入れられている。ほとんど切り花専用庫といってもいいくらいだ。庫内の下部に、かろうじて作り置きのおかずやジュースなどが入れられている。  いろいろなジュースがある中からオレンジジュースの缶を取り出して、一気に飲み干した。  酸味が喉を通り抜けていくのが気持ちいい。正直、暑いやら緊張やらで喉がカラカラだった。  ごちそうさまでした、と一応独り言ちるが、家主が戻ってくる様子はない。  そのうち手持ち無沙汰になり、ダイニングの中をうろうろしだした。  リビングとダイニングと和室が一続きになっており、襖を開け放つとかなりの広さになるのではないか。床に物があふれかえっているというわけではないが、机や棚の上はそれなりに雑然としていた。  そのうちの一つ、ダイニングテーブルに目を落とす。書類や鉛筆、眼鏡などがに紛れて置かれている写真が目に飛び込んで、息を呑んだ。  一面の緑の中に、ひっそりと純白が佇んでいる。 山の中に咲く、二輪の花であることに気づいた。 「きれい……」  なんの花だろう。  見たところ、古い写真のようだ。 「お前、ジュース飲んだか?」  リビングの扉が開き、慌ててソファの方へと移動する。  だが、ダイニングテーブルにぶつかってしまい、がたがたと机の上の物を落としてしまった。 「すみません!」 「人ん家でなにやってんだよ……」  天蘭は慌ててしゃがみ込み、フローリングに落ちた写真を集める。朗もしゃがみ込み手伝ってくれる。 「あ、あの、この花の写真って」 「ああ、これはこの山でしかとれないラン。お前の名前に入っている、「蘭」だよ」 「だからあのとき、良い名前だって……」 「親御さんが愛情をもってつけてくれる名前なら、全部いい名前だと思うがな。お前の父さん母さんはセンスがいい」  改めて、手に持った古い写真を眺めてみる。  急にこの花が愛おしく思えてきた。真っ白で、濁ることなくしっかりと根を張って立っている。 「オレ、こんなキラキラネームほんとに嫌で……。朗さんが好きって言ってくれたから、すごく、嬉しかった」 「そうか」 「朗さんって、華道家なんですよね。……よければ、蘭のこと、もっと教えてもらえませんか」 「え?」  彼は驚いたように顔を上げる。  天蘭も思わず自分の口を押さえた。口に出した後だったから、なんの意味もなさない。  花のことに興味があって、とかデザインに興味があるから、とか慌てて口にした言葉に、朗はますます首を傾げていく。  天蘭の支離滅裂な説明を、朗は当然理解できなかったようだ。  顎に手を当てて、しかめっ面で天蘭のことを見ている。  ――ほんとうは、もっとこの人のことが知りたくなった。  どうしてそんなに飄々と、かっこよく生きられるのか。家族はいるのか。どんな学校に通っていたのか。 華道だけで食べられているのか。  この人のことが知りたくなって、いてもたってもいられないような感情。  知的好奇心なのだろうか、と天蘭は説明できない自分の気持ちにとりあえず理由をつけてみる。  自分ですら触れないような場所に侵入を許した相手に対して、友達とも家族とも違う、妙な信頼感のようなものが生まれていた。 「……つまり、お前、花に興味があんのか? とてもそうには見えねえが」 「あ! あの、夏休みの宿題で、一つのことについて調べるっていうのがあって……」  とっさに思いついたのは、夏休み初日に同級生がポストに届けてくれた、夏休みの課題一覧のプリントのことだった。課題ドリルの他に、何か一つ、興味を持った物について調べてくる課題があった。 「自分の名前に蘭、って入ってるけど、蘭のことを調べたことがないなと思ったから。それに……朗さんはいい人だと思うし」  そう言って朗の方を見た。はっきりとした焦茶の虹彩が、こちらを見つめている。視線が絡み合うような感覚。目が離せない。  一瞬の出来事だったのに、とても長い時間のように感じた。 「二回会った程度でいい人なんて言いきっていいのか?」  朗は、鼻だけで嗤った。 「……お前が思うような仕事とは、多分違う。……生半可な気持ちで足を突っ込まれると、迷惑だ。宿題に協力できないのは悪いが」 「迷惑……そうですよね」  とりつく島もないと思った天蘭は、がっくりと肩を落とす。 「よく考えたら、お仕事も、家のこともありますもんね。奥さんやお子さんにも迷惑だし……」 「……まあ、仕事はそうだな。でも……子供どころかかみさんもいねえよ」 「こ、」  こんなにかっこいいのに、と言おうとして慌てて口を噤んだ。  何を言おうとしてるんだ、俺は。 「こ、こ……こ、どもがいないなんて、意外ですね」 「どう言う意味だよ、それ」 「さっき外で煙草を吸ってたから、てっきり家族がいるのかと」  一人でこんなに大きい家に住んでいるのか。  ますます目の前の男の人物像が分からなくなった。 「俺には仕事をする才能しかないからな。家庭生活に求められる、協調性や思いやりなんてものは持ち合わせていない」 「……協調性がないのは、俺もおんなじです」 「まあ、協調性のある人間になりたいと思ったこともないが」 「えっ」  天蘭は学校に通っていない自分のことを考えると、胃がきりきり痛くなる。  どうして普通のことができないんだろうと、ずっと思っている。  そんな普通のことができない自分を、家族は励ましてくれる。焦らなくてもいいと言ってくれる。  そうすると、余計に天蘭は学校に行かないとという気持ちになる。普通のことができない自分が、とんでもない欠陥品のように感じるのだ。  天蘭は皺の刻まれた、落ち着いた表情の横顔を、じっと見つめる。  視線の先にいる朗はフローリングの張られたリビングの向こうに目を転じた。  リビングの向こうに襖がある。開け放たれた襖の向こうには畳、そして床の間がある。  小さな黒い皿の上に、緑の葉が被さっている。そこからすっと伸びた茎の上に、紫の花が咲いていた。その花の後ろで花を引き立てるように、笹のような葉が背景を埋めている。  花は、自然の美しさを教えてくれる。どうしてそんなことを思うのかは分からない。動物の本能なのかもしれない。何百年、何千年と受け継がれてDNAに刻まれた、自然の美しさを解する感情。切り取られた自然が、そこにあった。 「あの花。……きれいですね」  目にする機会はたくさんあったはずなのに、まじまじと見たことは無かった。 「俺が生けた花だ。……ありがとな」  はにかんだような笑顔を向けられて、天蘭は自分の頬が熱くなるように感じた。慌てて遠くの花に視線を戻す。  花は、きれいだ。見ているこちらの心までも、きれいになるような気がする。  きっと相当な経験を積んできたのだろう。彼は自分に協調性がないと言いながらも、それを後ろめたく思っている様子は無い。そのくらい、自分に自信を持っていて、後悔の無い人生を送っている。  天蘭は華道が、どういうものなのか今まで全く知らなかった。  「それ」は、いま目の前にあって、鮮やかな色彩を持って天蘭に迫っている。  ――これが、花の美しさだ、と。  彼が華道家であると知っても、その仕事がどういうものなのか曖昧で、今まで「彼は魔法使いだよ」と言われているような、そんな気持ちだった。  それが今、何をするものなのか、少しだけ分かった気がした。  上手く言葉にできないけれど。そのままでも十分きれいな花を、こうやって切り出してきて、さらに本質を見つめさせる。  こういうものを作り上げることができるようになるには、どのくらいの歳月が必要なのだろう。  愛おしそうに自分の作品を見つめている朗は、口の前に人差し指と中指を持ってきて、そのまま下げた。  無意識に煙草を吸おうとする仕草からみるに、相当のヘビースモーカーのようだ。 「煙草……」 「別に、俺は気にしません」 「花があるから」  朗は台所の奥へと向かっていった。リビングからその様子がみえる。  背を丸めて煙草をくわえ、つっかけサンダルを履いて裏口から出ようとして、天蘭の方を向いた。 「仕事の邪魔にならない範囲でだったら、相手してやる。そのかわり、真剣にやれよ」  家に帰って親に「夏休みの課題」と書かれたプリントを突きつけ、「自由研究、花の生態について調べることにした」と言うと、高校に通う気になったのかと勘違いした父は、目を瞠ったあとに満面の笑みを浮かべた。  あまりの喜びように誤解を解くのが申し訳なくなって、「ああ、うん」な適当に誤魔化してしまった。  朗が華道家であるということは、村では有名らしい。さらに、朗と父はもともと知り合いで、東京にいるときに何度か会ったことがあるという。もっとも、天蘭が小さいときで、再会した時はお互い分からなかったが。  名乗ったときの引っかかるような反応は、小さい頃の天蘭を知っていたからかも知れない。  父はというと、自分から朗にコンタクトを取り、花の事を教えてもらうという約束を取り付けてきたことに驚いていたようだ。  名前を褒められたと言ったら、そういえば会うたびに子供の名前を聞かれて、名前を教えるたびに「ああ、そういや前も聞いたな」といいつつ毎回天蘭の名前を褒めてくれていたという。 「仕事で初めて会って、出身地が同じだからお互い驚いてね。何回かうちに招待したけど、天蘭が幼稚園に行く頃には疎遠になってしまってたかな。こっちに帰ってきてから、一度挨拶に行ったよ。……それで、次はいつ朗くんの家に行くの?」 「明日」 「明日!? 仕事の邪魔にならない?」  その可能性はもちろん天蘭も考えた。  帰りがけに仕事の邪魔にならないかと聞いたら、家の仕事がほとんどだからいつでも来い、と言ってくれた。  そのことを父に伝えると、 「じゃあ、今度また御礼に行かなくちゃ」  と言って嬉しそうに笑った。  翌日、出かける直前に、自分用の飲み物を水筒に入れに行くと、父が畑で採れた野菜をたくさん持たせてくれた。朗へ渡すようにと持たされたが、とても一人で食べきれる量ではない。  朗の家の敷地は、ほとんど花の栽培に使われている。だから野菜の類はほとんど育てていないのだと言う。 「……正直助かるけど……なんか悪いな」 「いえいえ、全然……」  なす。きゅうり。とうもろこし。トマト。お歳暮のおすそ分けのそうめん。  昼は朗が茹でてくれそうめんを食べた。  午後になると家の裏手にあるビニールハウスに連れていかれた。ビニールハウスというと野菜の苗を植えてあるイメージだったが、ここに置いてあるのは花の鉢植えだ。 「……蘭?」 「そう。全部蘭だ」  ランと一口にいっても、日本由来のもの、海外由来のものがあり、その中でまた細かい種類に分かれているらしい。ここで栽培しているのは主に切り花に向いたラン、つまり華道に使うランだそうだ。ビニールハウスの中の気温が、ランの栽培にちょうどいいのだという。  特に寒さが苦手な品種は、家の中に置いているというから徹底している。  花が大きく、鉢植えの状態でも十分綺麗だ。 「こんなところかな」  大きいハウスの中をぐるりと一周して中を案内してもらった後、気がすむまで観察したら帰っていいぞ、と朗に言われて頷いた。  今夜はカレーにするか、と言って去っていく朗を、しゃがみ込んだまま見送り、花に視線を戻す。  一応ノートは持ってきた。ノートを広げると、スケッチしようと辺りを見渡す。  降り注ぐように白い花が連なっている鉢植えを見つけて、その前にしゃがみこむ。天蘭は、ジュワジュワ、と音を立てて重力に逆らわず落ちていく花火を思い出していた。  胡蝶蘭、という有名な花だというそれを、まじまじと眺める。  一つの茎にいくつも生えた白い花は、もちろんどれも同じ花弁だ。花びらの数が違ったり、花の色が違ったりということは絶対にない。  全く同じはずなのに、違和感がない。  たとえば、花の絵を描こうと思って、一つ花を描くとき。それをコピペして胡蝶蘭の花を描いていったら、妙な気持ち悪さが残るだろう。  アニメの群衆のシーンで、全く同じ人間のイラストがコピペされていたら、途端に興ざめするように。  だから、違和感を与えないように精緻に絵を描こうとしたら、一つ一つの花を手描きするしかない。  同じに見えて、少しずつ違う。  それが自然だ、と朗は言っていた。  その説明を聞いた天蘭は、同じ制服を着せられて、同じ授業を受けている学校のことを思い出していた。  この花たちのように、同じであることが当たり前だと遺伝子に刻まれていたらどんなに楽だっただろう。悩まずに、同じ形であることを受け入れられる。  中途半端に知能があるから、こんなことで悩んでしまうのだ。  しかも天蘭は、頭がいい方ではない。だから、頭のいい人みたいに、解決策を思いつくことも、精神の強い人のように割り切ることもできない。  ただうじうじとイヤだと思い続けて、でもイヤだと言えなくて、ためこんで、ある日ぷつりと糸が切れてしまった。  その結果が、今だ。 「……手。止まってるぞ」  ほんのりと煙草の匂いがする。喫煙所の前を通ったときの、あの匂い。どきりと胸が鳴る。  天蘭はまだ煙草を吸える年齢ではない。周りに吸う者もほとんどいなかった。  慣れない匂いだから緊張するだけだ、と自分に言い聞かせて、駆け足になりそうな鼓動を落ち着かせる。 「すいません。ちょっと、考え事しちゃって」 「花の観察は、花を見ろ。考え事は後にしておけ」 「はい……」  すぐにくよくよ考えてしまって、目の前のことが疎かになってしまったことが恥ずかしくなった。  天蘭はノートに目を落とし、メモを続けようとシャーペンをノックする。  思いつきで口走った夏休みの宿題だが、やるならきちんとやらないと、教えてくれる朗や父に示しが付かないのはわかりきったことだった。  一言に「花のことを調べる」と言っても、もっと範囲を絞らないと調べようがない。  何でもいいと言われると却って悩んでしまって、決められないままだった。  そのことも相談してみたら、朗が花の観察をしつつ、気になったことを調べればいいと言ってくれたので、天蘭はそうすることにした。 「……一人でいるとくよくよ考えるだろ。そういうときは、花の形に集中しろ。花の形は一つ一つ微妙に違うって、さっき言っただろ? 微妙に違うところは、特徴となりうる。その特徴を見つけてやるんだ。みつけて、愛おしむ」 「愛おしむ……?」 「でも、同じ形だから、違いなんて少ししかないんじゃ」 「その少しの違いが、花の作品全体の印象をガラリと変える。一方の作品で選ばなかった花も、他方の別の作品で美しく輝く。……花の個性を見つけて可愛がるのも、俺の仕事のひとつだ」  目も当てられないような不格好な花びらだったらどうするんだろう。めしべがぐにゃりと折れ曲がっていたりしたら。  首を傾げる天蘭に、朗は微笑んだ。 「大人になったら分かるさ」  目の前の大人は、立ち上がると「日が暮れる前には帰れよ」と言って、天蘭の頭に手を置く。  高校二年生になっても成長期途中の天蘭は、朗より小さい。その距離が、なんだかもどかしく思えた。  彼は天蘭の頭をぽんぽん、と何度か撫でたあと、家の中へと歩いて行った。 「大人……」  大人になったら仕事をしなきゃいけないし、結婚しなきゃいけない。子供も作らないといけない。  そんな風に思っていたから、大人になんて絶対なりたくないと思っていた。  大人になったら、彼と同じものが見えるのだろうか。  大人になったら、彼と同じことが分かるようになるのだろうか。  煙草を吸ったりして、意外とかっこいい大人になったりして。  そう考えると、大人になるのもすこしいいかな……と天蘭は独りごちた。  天蘭がぼんやりしている間にも、地球は回っている。  花にゆっくりと、灰色の影が落ちてきた。  日が落ちてきて、オレンジ色に照らされたハウス内は、所々が影になる。 「……今日の分は早く終わらせて帰らなきゃ」  汗が滲むハウスの中で、花の形をじっと見つめる。  蝉の声。鳥の鳴き声。ビニールの向こうから聞こえる自然が、天蘭を人間世界から隔離して守ってくれているようだ。  不思議な安堵感に包まれながら、ペンを走らせた。  スケッチはうまく出来なかったけれど、じっと花を見つめていると、朗の言った「一つ一つの違い」がなんとなくわかるような気がした。
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