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ノアはそれからも変わらない生活を送っていた。
すなわち、金がなく、これといった趣味もなく、遊ぶ友人もおらず、食事・睡眠の時間を削って勉強に没頭するという、他人が聞けば涙が出るほど寂しい学生生活を送っていた。
だが、その努力の甲斐があってか、通常18の歳で卒業するはずが、飛び級で卒業試験の受験を案内された。
卒業試験の通達を聞かされたときは、ノアにしては珍しく感情むき出しで歓喜の声をあげてしまった。
なんせ、あと数年かかる予定だった卒業が、向こうから降ってきたのだ。
しかも飛び級で卒業、となれば教授からの推薦・就職の斡旋もつくはず。なんとしてでもこのチャンスをモノにしなければ、と意気込んだ。
しかし、やはり人生はそう甘くはない。
「なんで、卒業試験に『採集』が含まれてるんだ…!」
日光もあたらない鬱蒼と生い茂る森の中、ノアは頭を抱えていた。
彼女が今立っているのは、魔法学校からやや離れた地にある森。不思議なことに、ここは常に魔力に満ちており、貴重な薬草や魔性生物が採集できる。
今回の卒業試験では実技項目として、この森に自生している薬草や素材を集め、指定時間までに学校に戻るというものが言い渡された。
「私の希望は、研究室にこもって研究する学者だぞ…フィールドワークなんて絶対いらない…研究に必要な薬草とかは冒険者に依頼すればいいことだろう……なんで…」
ノアが魔法研究学者を目指していたもう一つの理由。
それは、極度の運動音痴で、体を動かす仕事は全くできないということだ。
幼いころから非力で、少し走っただけで息切れする。日光にあたれば肌は赤く焼けるし、転んでけがもする。完全インドア派でひきこもるようになったのは、彼女のこういった気質にも依(よ)る。
魔法アイテム、回復薬はしこたま持ってきたが、素材の捜索・移動手段は徒歩しかない。
普段外を出歩かないノアにとって、足元の悪い自然の中を歩きまわるのは苦行でしかない。
森に入って数時間で、ノアはもう満身創痍だった。
「うう、なんで他の試験で代用できなかったんだろう…筆記でも口述でもよかったのに…」
ぶつぶつと恨み言は止まらず。
だが、そうは言っても学校から指定された試験だ。同じ卒業候補生が皆、この森に入って採集を行っている。アウトドアが苦手、などとわがままを言っていられない。
「…はあ。とにかく目的地を目指そう…ええと、この辺りの野草は採り終えたから、あとはセレスティア泉の近くかあ」
ノアは魔法のコンパスをかざして方角を見、地図で自分の居場所を確認した。
早く移動しないと、日が落ちて動けなくなってしまう。
さっさと終わらせてしまおう、と立ち上がろうとした、その時。
ガサガサッ!
「え?」
近くの茂みで音がしたと思えば、突如として、大きな影がノアの背後から彼女を覆った。
瞬時に振り向いたノア。
そこには
「グルルルルル…」
「っひい!!?」
熊だ。それも、体長3メートルはありそうな巨大な熊がノアの目の前に現れた。
「ぐ、グラント・ベア…!はじめて見た…」
「グルルルルル…ガアアアア!」
「わあああ!!」
なんて、冷静に言っている場合ではなかった!食われる!!ノアは、慌てて餌(ノア)めがけて襲いかかってくる熊から走りだした。が。
「っ!うわ!?」
彼女はあろうことか、木の根に躓いて盛大に転んでしまった。
もろに地面に倒れ、手と足に擦り傷を作る。
その隙に、熊がその鋭い爪を振り下ろそうとする気配を背中に感じた。
ノアは自分の愚鈍ぶりを呪うとともに、あまりにもあっけないもんだ、と死を覚悟した。
「ほんと危なっかしいな、お前は」
「…え?」
しかし、またしても予想外のことが起きる。
覚悟していた痛みはなく、代わりに落ち着いた男性の声が降ってきたと思えば、次いで聞こえたのは獣の咆哮。
何が起こったのか、とノアが身を起こしたときに見たものは、学生服を着た男子生徒の背中と、呻いているグラント・ベアの姿だった。
剣を構え、熊と対峙している金髪の男子学生。
クラウスだ、とノアは思った。
「下がってろ」
言うやいなや、クラウスは手にしていた片手剣を熊めがけて振り下ろした。
あがる血飛沫。咆哮をあげ、あっけなく倒れるグラント・ベア。
一撃で熊を倒したクラウスは、ノアに向き直った。
「立てるか」
「あ、ああ、ありがとう……っいた!」
魔物を一体倒したというのに、何事もなかったかのように涼しい顔でノアを見下ろすクラウス。
ノアはどもりながらもとりあえず礼を口にし、立ち上がろうとしたが、転んだときの傷が痛み、顔をゆがめた。
「…、怪我しているのか」
「へ!?いや、別に。これは魔物につけられた傷じゃ…」
「見せろ」
クラウスはノアのそばに近寄り、服が汚れるのも構わず片足をついてノアの怪我を見た。
そのあまりにも絵になる光景に呆然とするノア。
王子様か。
「なんだこの足は。擦り傷だらけだ」
「こ、転んで…。あの、全然大したことないから、」
「………。」
恐縮するノアの足に手をかざし、クラウスは無言で回復魔法をかけていった。
また、ここも、ここも、とこれまで木の枝だの葉で軽く傷つけたひっかき傷まで丁寧に治療していく。
…な、なんか恥ずかしいんですけど!!
「も、もう大丈夫です!ありがとうございます!」
一通り傷を治してもらったノアは、今度こそ立ち上がり、改めて礼を言った。
何はともあれ、彼が窮地を救ってくれたことには変わりない。
クラウスのことを嫌味な奴と一方的に嫌っていたが、考えを改めるべきか、とノアはひそかに反省した。
「別に、いい。」
「あ、べレスフォードさんも卒業試験で…」
「クラウス」
「え、」
「クラウスだ、そう呼べ」
「は?でもべレスフォード、」
「クラウスだ」
「……。」
なにこいつ。
しかも同じ歳だ、敬語は不要だ。とか言ってくるし。責めるように睨んでくるのをやめていただきたいんですが。
「…クラウスさんも、卒業試験で?」
結局、押し問答になったので、ノアはしぶしぶ呼称を改めた。
屈辱だ。卒業間近になって、なぜこんなよくわからない男と関わる羽目になるのか。
「ああそうだ。それで…お前、パーティは組まなかったのか?」
「ぐ」
クラウスの至極当然な質問に、ノアは気まずそうに顔をそらした。
卒業試験、実技試験『採集』では、複数の生徒とパーティを組むことが推奨されている。
森は広範囲にわたる上、先ほどのような危険な魔物に出くわす可能性もある。故に、攻撃魔法に特化した者、索敵に特化した者、回復魔法に特化した者などバランスのよいグループを組み、全員で協力しながら安全に試験を終わらせよ、ということだ。
この試験はタイムリミットこそ設けられているものの、クリアする速さを競うものではない。
卒業候補生たちは大体4~5人ほどのグループで試験に臨むのがふつうであった。
「あんな熊で手こずっているようでは、先に進めないぞ。見たところ、戦闘は苦手のようだしな」
「うう…」
だがしかし、ノアにパーティを組めるような友人などいる訳ない。
――いたら、ぼっちで森の中にはいるものか!
ノアは情けなさに少し涙目になってしまった。
「く、クラウスさんだって、ソロじゃないですか!」
「俺はソロで十分だからな。戦闘能力に特化しているし、何回かフィールドワークで魔物を相手にしたことがある」
「うぐ」
本当に欠点のひとつもない男だ。
しかもノアと同じく、飛び級で卒業試験を案内されている。これでは、ノアが他の試験でいくら優秀でもクラウスには勝てないだろう。悔しさにうめくしかないノアである。
「…ご忠告ありがとうございます。じゃ、私はこれで」
これ以上惨めな思いはしたくない、とノアはクラウスに向けてそう言い放った。
そうだ、この試験さえ突破できれば晴れて卒業だ。
この男に敵わなくても、とりあえず学校を卒業できればいい。同級生同士、飛び級での卒業ということでクラウスと比較されるだろうが、その後また努力を重ねれば良いことだ。
ノアはそうして気を取り直し、目的地へ向かって歩き出した。
「待て」
歩き出そうとした、が。何故かクラウスに呼び止められた。
「なんでしょうか」
ノアはイライラとしながら再びクラウスを見やった。
小さなプライドがボロボロになり、気が立っているノアがつい冷ややかな口調になってしまったのは仕方のないことだろう。
というか、本当に何なんですかね。あれか、御礼でもよこせとかいうことか。
「すみません、助けていただいて何ですが、御礼などは持ち合わせていませんので、また後日…」
「お前、ここから先一人で行くのは危険だろう。一緒に行かないか」
「え?」
ノアは目を丸くした。何を言い出すのか、この男。
「え?いやいやいや!何故ですか!」
「別に目的地は一緒だろう。同行の間、お前を守ってやる」
「結構です!大丈夫ですから!」
「俺が大丈夫じゃない。大怪我でもされると、困るからな」
「はあ?」
困るとは、なにが困るのか。
一緒に行く、行かないとまたしてもお互いに譲らないノアとクラウスは硬直状態になった。
なんなんだ、この貴族様は。さっきから押しが強すぎないか。というか、ノア(足手まとい)と一緒に試験に臨むメリットなんて、皆無だろうに。
「…わかりました。よろしくお願いします」
結局、よくわからない迫力に負けたノアは、クラウスの同行を許可した。
すると、クラウスは女学生たちが歓声をあげそうな、実に爽やかな笑顔を作った。
「そうか、では行こう」
「え、わっ!」
言うなり、クラウスに手を取られたノア。そのまま彼は手を繋いで歩き出した。
「いや、手を繋ぐ必要はどこに!」
「お前、放っといたらすぐに転ぶだろう」
「え、いやあれは熊のせいで!」
「いいから」
心なしか嬉しそうなクラウス。先ほどの仏頂面はどこへやら、声まで弾んでるように感じられた。
何が何だか意味が分からないノアは、戸惑いながらも、『まあ、魔物退治してくれると言ってるし、無事にこの試験がクリアできるなら』と思い直した。
切り替えの早い所は、ノアの数少ない長所のひとつなのだ。
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